藤堂志津子 恋人たちの憂鬱 目 次  女 優  少 年  パッチワーク  ウェディング・ベル  誘 惑  老 成  優等生  病 棟  ルームメイト  ゲーム・セット  女 優  旅立ちの仕度には、そう手間はかからなかった。  千加《ちか》はタンスの引き出しを開け、下着や靴下、Tシャツ、ジーンズなどを、黒の大きな布製のバッグに次々と移し入れる。  スカートやブラウス、ややドレッシィな服のたぐいは、すべて置いてゆくつもりだった。  くわしいことは聞いていない。  ただ、これから一年間、全国各地をまわる予定の小劇団に参加するからには、力仕事も覚悟のうえであり、ちゃらちゃらした服装とは無縁な日々となるだろう。  ジーンズとTシャツをベースにして、あとは気温や天候次第でセーターをはおったり、Tシャツをタンクトップに変えたりすればいい。  千加はタンスの中のものを手早くバッグにおさめてゆく。  姉のそうした動きを息をつめるようにして見守っていた由加《ゆか》が、ようやく口をひらいた。ふるえをおびた声だった。 「お姉ちゃん、本当に行ってしまうの」  由加の声とは反対に、千加はあっけらかんと言い放つ。そのあいだも手はせわしなくタンスとバッグを往復している。 「行ってしまうなんてイヤな言い方ね。これは私の再スタート、新しい世界への旅立ちなのよ」  真実、千加はそう思っていた。  二十五歳になるまでの三年間、ウエイトレスという仕事は変らなかったけれど、さまざまな店を転々としてきたのは、いま考えてみると、きょうの日のための準備期間だったのかもしれなかった。  ウエイトレスに固執してきたのは、客の前で示す、ささやかなパフォーマンスが気に入っていたからだ。  注文の聞き方、さしだす料理皿にそえる言葉のひと言ふた言、客を送るときの笑顔、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の台詞《せりふ》をどんな調子で、どんな表情であらわすかなど、毎日がこまかい演技のつみ重ねともいえた。  ただ同じステージ、同じセットには、すぐに飽きてしまう。  だから千加は、ひとつの店にふた月以上いたためしがなかった。  この三年間でいちばん長く勤めたのは�パブ・めんどり�の五カ月、ただそこでバーテンダーの康雄《やすお》と親しくならなければ、もっと早くに辞めていたに違いない。  ふたたび由加がしめった口調でたずねた。 「康雄さんは、このこと、知らないのでしょう」 「だからね、由加から説明しておいてって、さっき頼んだじゃないの」 「私、自信ない」 「自信なんて関係ないでしょ。ありのままを言えばいいのだもの」 「ありのままといっても、どの程度まで」 「姉は昔やっていた芝居にもう一度もどることになりました。小さな劇団の全国巡業についてゆきました。多分この部屋にはこの先ずっと帰ってきません……」  その劇団に所属し、きょうの決意を固めるきっかけになった男については、千加は妹にも黙っていた。  男は、千加がきのうまで勤めていたジャズ・バーの客だった。  二十九歳のその男は、店にくるたびに熱っぽく芝居の話をし、千加のなかに眠っていた演劇欲をいつのまにかめざめさせた。  演劇への意欲と、男への愛情と、どちらが先だったのかは、はっきりしない。  いずれにしろ、千加は、現在の生活にそろそろ終止符《ピリオド》を打たなくては、と考えていたのだった。  ジャズ・バーに勤めたのはひと月前で、初出勤の夜から、その店の常連客のひとりだった男と言葉をかわした。最初から話ははずみ、気が合った。  漠然とした予感もいだいた。  私はこの人と深いかかわりをもつことになるのではないだろうか。  といっても、このひと月間、千加と男のあいだに体の関係はなかった。  それよりも千加の心を動かしたのは、男がもうしばらくすると全国各地をまわる芝居の旅に出る、ということである。  由加と康雄にはかくしていたけれど、男からそれを聞いたときから、千加の気持ちは少しずつ傾きはじめた。  仕度はととのった。  バッグにはまだ余裕があり、千加は室内を見わたす。忘れ物はないだろうか。  由加が、ややうらみっぽい言い方をした。 「私が説明しても、康雄さんはきっと信じないと思う」 「どうして」 「お姉ちゃんと私が喧嘩《けんか》をして、それで、お姉ちゃんがここから出て行ったと考えるに違いないわ」 「何が原因で喧嘩したというのよ、私と由加が。おかしな子ねえ」  千加は、そこでようやく笑いながら妹のほうを見た。  小さなキッチンに六畳ふた間のアパートの部屋だった。  由加はふた間を仕切る敷居のところに立ち、襖《ふすま》に軽く片手をそえていた。  二十二歳の年齢より、はるかに稚《おさな》く見える由加の顔立ちも体型も、まるで千加とは似ていなかった。  赤の他人と称しても信用されるだろう。  高校生の頃から演劇部で活躍し、つねにヒロインを演じてきた千加は、舞台ばえのする派手な目鼻立ちと豊かなバストにめぐまれていた。  それに引きかえ由加は、全体的に肉の薄い体つきに、埴輪《はにわ》を連想させるあっさりとした容貌《ようぼう》だった。会社から帰宅したままの半袖の紺のワンピース姿は、まるで高校生のように見える。  康雄が�パブ・めんどり�に出勤してゆき、それと入れ違いに由加が勤めから帰るのを待って、千加は今夜の旅立ちを打ち明けたのだった。  姉の正視に耐えきれないように、由加は目を伏せた。  が、一瞬後には、必死のおももちで首を立て、千加を見返した。 「お姉ちゃんが身を引くのはおかしいわ。そうしなくてはならないのは、むしろ、この私よ。だって……」 「由加」  妹の言葉を途中できつくさえぎった。  この二年半、円満にやってきたのである。  それをいまさら、あえて口にすることもない。  千加は、あとくされなく旅立ちたかった。  田舎をはなれ、都会でひとり暮らしをしながら通った短大を卒業後、千加は二年間だけ会社勤めをした。小企業の事務員の仕事はつまらなかった。やぼったい制服にもうんざりした。  会社を辞めた再就職先が�パブ・めんどり�だった。  ほんの腰かけ程度の気持ちで、次の会社が見つかるまでのつもりだったのが、ウエイトレスの仕事が意外と自分に合っているのに気づかされた。終日デスクの前にすわり、伝票を相手にしているより、ずっとやりがいがあり、楽しかった。  康雄は千加より三つ下の十九歳、大学を中退して、その店で働いていた。まじめで、おとなしい青年だった。  千加は康雄に積極的に近づいた。どことなくイジメたくなるようなまじめさ、自分の言いなりになるおとなしさ、このふたつをかねそなえている男が千加の好みだった。  知り合ってほどなく同棲《どうせい》にこぎつけたのも、千加が強引にそうしたからである。  だが甘い気分の日々は長くはつづかなかった。住まいも職場も一緒の関係は息苦しさをますばかりで、千加はときどき理由のないヒステリー状態におちいった。  そこで�パブ・めんどり�から、やはり同じパブ形式の店に移った。  一緒にいる時間が半分にへっても、いったん冷《さ》めかけた康雄に対する愛情は、そう簡単にはもどらなかった。  しかし同棲してから半年にもならず、康雄は彼なりに千加との生活に満足しているらしい様子を見ると、どうしても別れ話は切り出しにくかった。同棲に引きずりこんだのは自分のほうからという負い目も千加にはある。  その苛立《いらだ》ちを、千加はサディスティックな行為でまぎらわせた。康雄をわけもなくつねったり、ぶったりすると、いっとき気が晴れるのだった。  たいがいはベッドのなかだった。  そのベッドはダブルサイズで、もとはラブ・ホテルで使われていた妙にけばけばしい色とデザインだった。  明るいワイン・レッドの合成樹脂でできた高いヘッドボードと同色の枠組み、マットもその色で、六畳の部屋に置くと、かなりのスペースがふさがってしまう。  だが千加は文句は言わなかった。  同棲するにあたって、おとなしい康雄が珍しく友人知人に働きかけて手に入れたベッドだったからである。営業を停止するラブ・ホテルの従業員だった知人から、どうにか都合してもらったという。いくらでゆずり受けたのか、それも知らない。  同棲したての当時は、康雄のそうした熱意がうれしかった。少し目ざわりなワイン・レッドの色は、淡いプリントの花柄のベッドカバーでおおうことにした。  千加のサディスティックなやり方を、康雄がどう感じていたのかは、わからない。  ただ、あまりに度がすぎる場合にだけ、千加の手首を強い力で握りしめ、動きをやめさせた。  千加の攻撃がいっそう激しくなり、康雄がそれを制止する回数がひんぱんになってきた頃、由加が上京してきた。  同棲してから半年がすぎようとしていた。  康雄と同い年の由加は、高校を卒業してから実家のある地元で就職したのだが、都会への憧《あこが》れもあってか、ビジネス専門学校に進みたいと、姉の千加を頼ってやってきた。  幼い時分から仲の悪い姉妹ではなかった。  身辺が落ち着くまで、という条件で、千加は康雄に妹の同居を申し出た。  喧嘩がたえなくなった自分たちのあいだの中和剤になるかもしれないという打算も千加にはあった。 「おれはかまわないよ」  康雄は快く承知した。  由加の同居は成功だった。  康雄と顔をつき合わせていたときの、千加のとげとげしい感情は次第に薄らいでゆき、それは彼にも当てはまるらしく、なごやかさがまいもどってきた。  由加が家事好きなのも、さいわいした。  それまでは千加と康雄が分担していたのだが、由加が一手に引き受けてくれることになり、ふたりは家事から解放された。  物静かな由加の性格とその雰囲気は、六畳ふた間とキッチンだけのせまい部屋に三人がそろっても、まるで気にならなかった。  夜はキッチン寄りの六畳間に由加は布団をしき、千加と康雄は隣室のダブルベッドで寝る。  ひと月がすぎても、だれも不平を言い出さなかった。  ふた月がたつと、由加がこの部屋にいるのが当然のような感覚が生じはじめた。  三カ月目も終りに近くなったある日、由加のほうから、自分の部屋探しについて、ふたりに相談を持ちかけてきた。  そのとたん千加と康雄は顔を見合わせた。  康雄のびっくりした表情が物語っているのは、おそらく自分と同じ気持ちだろう、そう判断した千加は、なにげなく言っていた。 「そんなにいそぐことないじゃないの」 「でも」  ふだんは無口な康雄も、いつになく口をはさんできた。饒舌《じようぜつ》だった。 「由加ちゃんがきて、おれたちは大助かりなんだ。料理も上手だし、こまめに掃除、洗濯をしてくれるし。おれたちは仕事のことだけ考えていればいいのだから、本当にありがたいよ」  由加のひとり暮らしの件は、これでうやむやになってしまった。  何かおかしい、と思いはじめたのは、いったい、いつ頃からだったろうか。  由加の康雄に対する態度が、へんにぎこちなく感じられて仕方がなかった。  康雄と視線を合わせるのを避けているようだし、ときおり千加にむけられるそれには、おびえの気配が走る。  それでいて、康雄がテレビを観《み》ている姿をぼんやり眺め、突然ハッとわれに返って、ひとりで顔を赤らめたりもする。  千加の見るところ、由加は康雄に相当|惹《ひ》かれているようだった。  康雄の気持ちはわからない。ほとんど表情にあらわさない男だった。  その時期、千加はパブを辞め、ファミリー・レストランで働いていた。  ある日曜日の午後、千加は部屋にふたりを残して出かけた。  だが、それはいつわりだった。あらかじめ休日願いを提出していて、その日はいちにち自由に使える。  近くの喫茶店で三十分ほどすごし、千加はアパートにもどった。  足音をしのばせ、部屋の鍵《かぎ》も音を立てないように細心の注意をはらい、中の様子をうかがいながら入って行った。  そして千加は目撃した。  ふたりがダブルベッドの上で、裸でもつれ合っているのを。それも、きのうきょうの関係ではなく、たがいに馴《な》れ親しんだ肉体の扱い方なのを。  千加はその場からそっと退散した。  不思議と嫉妬《しつと》の感情はわいてこなかった。  むしろ、これでようやく疑問がとけた心地がした。  同時に現在の自分はもはや同棲したての頃のような情熱を、康雄に持っていないことを、はっきり確信する結果にもなった。  ただ、どういう形であろうとも、由加だけは傷つけたくない。多分、由加にとって康雄ははじめての男性のはずだった。  映画館やゲームセンターで時間をつぶし、千加はふしぜんではない時間に帰宅した。  ふたりはテレビを観ていた。 「お帰りなさい」 「ご苦労さん」  いつもの声のトーンが、ふたりとも違っている。  目撃されたと勘づいたのだろう、千加はそくざにひらめいたが、いつもどおりにふるまった。 「ああ、おなかがすいたわ。由加、お茶づけ作ってくれる?」  もと演劇少女の真価が発揮された。演じつづけなければと千加は心に誓った。  こちらが当り前の言動に終始していれば、ふたりはあえて事をあら立てようとはしないだろう。  康雄と由加の性格のおとなしさから、千加はそう読んでいた。  そして二年半、三角関係はおだやかに保たれてきた。  だれもが何も気づかぬふうを装いながら、康雄と千加はダブルベッドで眠り、由加は隣室の布団の中で夜をすごす。 「お姉ちゃん、本当に今夜行かなくてはいけないの? あしたまで待てないの」 「そう。夜の九時に集合することになっているから」 「じゃあ�パブ・めんどり�に寄って、康雄さんに話していく時間はあるじゃない」 「だから、それは由加にまかせるって」  千加はバッグを肩にかけて立ちあがり、玄関へ進む。  由加の悲鳴に近い涙声が聞こえた。 「お姉ちゃん」  ゆっくりと振り返る。  由加の目に涙がもりあがっていた。  一瞬、胸がきしみ、千加はあわてて視線をそらす。  淡い小花模様がプリントされたベッドカバーが、奥の部屋を占領するように広がっていた。  三年前に同棲しはじめたときから、いっぺんも変えていない。 「由加、お願いがあるわ。あのベッドカバーを新しいのに変えて。それから、あなたのことだから大丈夫と信じているけど、悪い男にだまされちゃだめよ」  そう言うなり、千加は部屋をあとにしていた。  駅にむかって歩きながら、由加が康雄と結婚できるようにと祈った。  あれは、ふた月前だった。  なんとなく体調のすぐれない様子だった由加が、急に会社の仲間と旅行に行くと言い出した。週末を利用しての二泊三日の予定だという。 「最近、体の具合がよくないみたいだから、旅行で寝こんだりしては大変よ」 「ううん。ストレスがたまっているだけ」  由加が旅行に行っている三日間、康雄も何かと忙しそうだった。三日間とも日中から外出し、そのまま店に出ていく。  旅行から帰ってきた由加は、案の定、ひどく気分が悪くなったらしく、それから数日、会社を休んだ。  康雄もあれこれと気をつかい、由加の枕もとをのぞきにゆく。  そして千加は偶然に見てしまった。  由加のハンドバッグのくちが開いていて、そこからのぞいている白い袋に、とある産婦人科病院の名前が印刷されている。  すべてが判明した思いだった。  これといった原因もなく気分の悪そうな由加の青い顔、いきなりの旅行、そのあいだの康雄の外出、旅から帰ってからの不調、病院の薬袋——。  だが問いただしはしなかった。  知らんふりを装った。  それが妹への、せめてものいたわりと考えたからだ。  千加が、ふたりから遠ざかることを漠然と思い描きはじめたのは、それがきっかけだった。  こういう最悪の事態になる前に、なぜ自分は、もっと智恵《ちえ》を働かせなかったのか。  だが奇妙な発想かもしれないが、由加と康雄のそばに自分がいれば、妹はひどい仕打ちをされずにすむようにも思っていた。  もちろん、康雄がそんな「ひどいこと」をする男ではないのは十分にわかっていたが、それでもやはり不安があった。  まじめでおとなしい康雄にしても、由加とふたりだけになったら、予想外の一面をあらわしてくるかもしれなかった。  しかし、結局は、自分の引き際《ぎわ》がまちがっていたと千加は認める。  妹の体をそこねてしまう結果をまねいてしまった。  駅にたどりついた。  電話ボックスにしぜんと目がいってしまう。  余計な口出しかもしれない。  ふたりの関係をいっそうこじらせてしまう可能性もある。  ただ最後に康雄の誠実さを信じたかった。  千加は思いきって電話ボックスに入る。 �パブ・めんどり�のボタンを押す。  相手が出る。康雄に取りついでもらう。  しばらくして、康雄の声が伝わってきた。 「私。由加を幸せにしてやってね。約束してよね」  返事を待たずに電話を切った。  同棲してから三年がすぎていた。  それにしても、と千加は納得のゆかなさをおぼえる。  康雄は千加を抱くときは、いつもひどく妊娠を恐れた。用心深く、慎重だった。  そんな彼がどうして由加への配慮に欠けてしまったのか。  あるいは由加とふたりきりになると、そういう心づかいをつい忘れてしまうくらいに、無我夢中にのめりこんでいったのか。千加の知らない康雄の愛情の激しさと強さ。  さらに今回の中絶という解決策については由加のほうから言い出したのではあるまいか、と千加は勘ぐっている。姉の恋人を奪ったうしろめたさから、自分の肉体を傷つけても、どうしてもうめないとかたくなに我《が》を張りとおす妹。  すべては自分の勝手な想像であり、身内の身びいき的な発想なのかもしれなかった。  けれど、二十二歳のふたりが演じる、心のゆとりもなく、おのれをさらけ出して相手にぶつかってゆく姿を思うと、千加はうらやましさを感じる。ゆとりのなさが妊娠といった結果をまねいたにしても。  ひたむきな愛、いちずな想い、こうした感情を千加はこれまで、いっぺんも体験したためしがない。それは芝居のなかでだけ演じてきたものだった。  少 年  取引先のK商事からかかってきた電話を課長にとりついだのは輝子《てるこ》だった。  悪い予感がした。  K商事の営業とだけ名乗った男の声は、あきらかに不機嫌さをにじませ、ぶっきらぼうで愛想がなかった。  輝子が勤める事務機器メーカーのこの会社とK商事は、いわば持ちつ持たれつの関係にある。そのためK商事の者がかけてくる電話は、こちらがだれであろうとも、おおむねていねいで、そこはかとない親しみを感じさせた。きょうだい会社、の意識がどちらにもあった。  だが、いまの電話の主の口調には、まるでそんなひびきはない。  営業部の内勤である輝子は伝票整理の手をとめ、同僚の肩ごしに見える課長のデスクに視線を走らせた。  予感は的中したらしい。  課長は受話器を耳にあて、日頃の姿勢のよさとは反対に背をまるめ、しきりと電話にむかって頭をさげていた。そのうち背広のポケットからハンカチを抜き取り、額の汗をぬぐいはじめた。  よほどの苦情や文句を言われているに違いない。  とっさに輝子は右隣のデスクで伝票書きをしている本庄一郎《ほんじよういちろう》に目を転じた。  営業マンの彼は、確か午前中、K商事に出かけて行ったはずだった。  正面の柱にかけられた「出先スケジュール・ボード」の彼の名前の横に、K商事と書かれてあったのを輝子は思い出す。  他の営業マンに対してはともかく、輝子は一郎の行動スケジュールには、ひどく敏感だった。彼が席にいないとわかると、必ずボードを見てしまう。行き先を確認する。  そんな自分が輝子は妙にいまいましかった。まるで幼な子を案じる母の心境ではないか。迷子《まいご》にならないようにと、いっときもわが子から目をはなさない母親の態度そのまま。  しかも一郎は、K商事に行く直前に、またもや課長から叱言《こごと》を言われていたのである。  例によって彼は涼し気な顔で上司の叱責《しつせき》を受け、少しもこたえた様子ではなかったけれど、それを見ている輝子は、いたたまれない心地だった。  課長はまだ受話器を握りしめ、ハンカチで顔面に吹き出してくる汗をふいている。冷や汗に違いなかった。  十分に冷房のきいているオフィス内は、ときおり肌寒さにおそわれても、汗ばむような暑さからは、ほど遠い。 「本庄さん」輝子は上体をやや右に傾け、小声で話しかけた。 「きょうK商事で何かミスしたの?」 「ミス、ですかあ」  おっとりと一郎が答える。 「いやあ、別に、これといって思いあたりませんけれど」 「よく思い返してみて」 「うーん」  一郎は伝票書きを中断し、両肘《りようひじ》をデスクにのせ、手を組みあわせて、そこに顎《あご》を置く。他の者がそうしても、特別に目ざわりな姿ではないのだが、一郎のそのたたずまいは、いかにもだらけきった、くつろいだ雰囲気を漂わせ、入社早々の頃は、課長から何回となく注意されていた。  くり返される注意が功を奏したのか、最近の彼は少なくともオフィスではその姿勢をとらなくなっていたのに、ちょっと気をゆるませると、また元通りになってしまうらしい。  輝子の手は口より先に動いていた。一郎の両肘を、一挙に力いっぱい払い落としていた。 「本庄さん、だめよ、その恰好《かつこう》は」  支えを突然に失い、一郎はガクンと前のめりになって、デスクに顎《あご》をぶつけてしまった。 「イテ、テ……」  顔をしかめて、顎をさすりながらも、べつだん怒ってもいない。  自分の非をすぐさま悟ったのか、多少のことは大目に見てしまう鷹揚《おうよう》な性格なのか、輝子は、いまだに彼のそうした面をどう判断したらよいのか、とまどってしまう。  ただ、これだけは言えそうだった。 (世間知らずの、ぼっちゃんタイプ)  案の定、一郎は輝子の乱暴な仕草《しぐさ》をとがめるふうもなく、のんびりときいてきた。 「ね、青井《あおい》さん、ここのところ赤くなっていない?」  デスクにぶつけた顎を指さしてくる、そのまなざしには、一点のくもりもかげりもない。 「大丈夫、赤くはなっていないわ。それよりもK商事で何があったのか、私に言ってみて」 「急にそう言われても、ぼく、本当に心あたりはないんですよ」 「本当に」 「ええ」  こくり、と子供のように真顔《まがお》でうなずく。それ以上、追及すると、こちらがいかにもよこしまな猜疑心《さいぎしん》のかたまりに思えてきそうな、素直で、まっすぐな光を宿したまなざしだった。  私は彼を信じる、いや、信じたい、輝子が心からそう思ったとき、課長のいつになく押しころした低く張りのある声がひびいてきた。 「本庄くん。応接室にきたまえ」  その夜、輝子は一郎を飲みに誘った。  これまでも彼が課長にこっぴどく叱《しか》られるたびに、そうせずにはいられない自分がいた。  短大卒業後、いまの会社に就職して三年、輝子は二十三歳だった。  一郎は、この春の大卒の新入社員で、輝子よりはひとつ年下になる。  入社から五カ月たったというのに、彼は見事なくらい変わらなかった。学生気分が抜けきれず、同期入社の男性社員がめきめきと社会人の、企業人の意識に染まってゆくのとは異なり、彼はいつまでたっても部外者の目で会社と仕事と、そこでやっきになっているサラリーマンたちとを眺めていた。  冷笑の目ではなかった。  侮蔑の表情でもない。  強《し》いて言うなら、きょとん、としたまなざしだった。  いきなり投げこまれた異次元の空間の様相を、ひたすら大きく目を見開いて見ながら、びっくりしつづけている印象である。  サラリーマン世界のルールが、仕事上でのマナーが、いまひとつ身につかない彼は、この五カ月間で、ほとんど毎日のように上司から怒られ、注意され、叱られ、たしなめられてきた。  しかし、その効果はまるでなかった。  一郎は変わらなさすぎた。だれの、どんな言葉も彼の心には風のように流れ去ってゆくだけだった。  輝子はこの三年間で三十名近い男性の新入社員を見てきた。  けれど一郎ほどに成長の遅い新人は前例がない。頭が悪いわけではなく、有名私立W大の経済学部の出身である。  彼がいったん企業人としてめざめたなら、きっと大変なヤリ手になるだろう、輝子はひそかに期待していた。といっても、これといった根拠はない。  ただ彼の苦労知らずの鷹揚さと、おっとりとしたかまえ、上司の叱言にもくじけずに、つねに明るく、おおらかな言動は、同年輩の男性と比較すると図抜けている。将来の「大物」になる可能性は大だった。  が、輝子が彼をあれこれと励ましたり、かばい立てするのは、その将来性に賭《か》けるといった打算からではなかった。  とにかく一郎を見ていると「何かしてあげたい」気持ちが、しぜんとこみあげてくる。手をさしのべずにはいられなくなる。  彼が課長に応接室に呼ばれたことは、輝子にはショックだった。  それは一郎のおかしたミスが、他の者には聞かせられないくらい重大であることを、暗黙のうちに語っていた。  三十分ほどすぎて応接室からもどってきた彼は、ごく普通の顔つきを保っていたけれど、内心はかなり打ちのめされているに違いない。  ただ彼の育ちのよさが、日頃の茫洋《ぼうよう》としたスタイルが、あまりにも身にそなわりすぎていて、ストレートな感情表現をためらわせているのだろう。  冷房のきいた居酒屋で、一郎を言葉で慰めるかわりに次々に料理を注文し、たらふく食べさせたあと、輝子はさりげなく言った。 「ミスはだれにでもあるわ。特に入社して一年もたたないうちなど、泣きたくなるようなミスのひとつ、ふたつ、みんな経験している」  一郎もまた淡々とした口調で語った。 「サラリーマンというのは大変なんですね。よく働くし、会社と自分は一心同体みたいに考えているし、ぼく、不思議でなりません」  ミスについては、できるだけ触れたくないに違いなかった。その思いは輝子にもよくわかる。  しめっぽくなってはいけない、自分が元気いっぱい快活にふるまって、そうすることでおちこんでいる彼の気分を晴れやかにさせるのがいちばんだった。 「本庄さん、そのジョッキの残りのビールをあけて。でね、もう一杯ずつ飲んで、それからカラオケに行きましょうよ」 「いいですね」  笑顔の返答だった。  輝子は調子づいた。やはり、ここは明るく、くったくなく、自信に満ちた先輩ぶりを演じるのが何よりの彼の慰めと励ましになるらしい。  輝子はウェイターにむけて、高々と手をあげた。めいっぱいの大声を発した。 「ジョッキ二つ、お願いします」  そして一郎の肩を、はずみをつけてたたく。唄《うた》うように声をとばす。 「くよくよしないで。人生、なるようにしかならないんだから。ほら、私を見なさい、私を」  おっとりと楽しげなほほえみが、少しずつ一郎の顔にひろがっていった。  夏が去り、街は初秋の色合いにつつまれはじめた。  一郎の仕事ぶりは相変わらずだった。  輝子はそんな彼を見る自分のまなざしが、はっきりと変化してきたのを感じた。  愛《いとお》しかった。彼のすべてが、いじらしかった。  何かしてあげたいという思いは、つのる一方だった。  営業からもどった一郎が、肩のこりをほぐすように首をまわしていると、すぐさまそのうしろに立ち、心ゆくまで肩をもんでやりたい衝動にかられた。  倉庫から重いダンボール箱をかかえてくる姿を目にすると、いそいで走り寄り、非力ながら自分がその箱を運んでやりたかった。  昼休みのおしゃべりのなかで、一郎がなにげなく「最近は部屋の掃除もろくにしていないので、ひどい有様になっている」と言うのを聞くと、早退してでも彼の部屋に行き、ピカピカに磨きあげ、彼の喜ぶ顔が見たいと切望した。  発想のすべてが「彼のために」を中心にまわっていた。  そういう自分が、輝子は信じられなかった。  これまで好きになったり、つきあったりした男性に対しては、わがまま放題で、つねに相手から何かしてもらうことばかり求めていたのが、一郎には、してあげたいのだ。  惜しみなく、与えたい。  与えつづけて、その返礼は彼の笑顔さえあればいい。  もしかしたら、と輝子は深夜ひとりで思う。愛というものはわからないけれど、これは愛ではないのだろうか。  相手につくす。つくすことの充実感。  輝子にとっては、初めての体験だった。  一郎の姿を思い浮かべるだけで息苦しさをおぼえ、それでいて息苦しさの底には、ゆるがない「愛するという意志」がある。  男性との交際で、意志を働かせるなどとは、これまで考えたこともない。  けれど、心に根を張った、強く、したたかなそれは、どう言葉をさがしても、意志、としか言いようがなかった。  私は彼を愛している、そっと口に出してつぶやいてみる。  すると、その愛する意志は、いっそう深々と心の奥にまで、清らかで透明な生気をしみわたらせてゆくのだった。  十月の初旬に会社の同僚の結婚披露宴が開かれた。  新郎は一郎や輝子と同じ営業二課の営業マンであり、新婦とは学生時代からのつきあいだという。  披露宴のあと、あすは休日ということもあって、営業二課は課長を除いて全員が同じ二次会に流れこんだ。  小さなパブが貸し切りの状態になってしまった。  輝子は他の人々に気づかれないように、しかし、それでいて周到な計算をしながら、一郎のそばから、つかず、はなれずの状態を図りつづけた。  披露宴に出席するにしては、やや地味な黒っぽいシンプルなワンピースも人目につかないためであり、下着はすべて新品を着用してきた。  二次会で皆がしこたま飲み、酔いがまんべんなくまわってきたところで、輝子は一郎のそばに席を移した。  小声でささやいてみた。 「ふたりだけで三次会に行かない?」  迷いのない、あっさりとした返事が返ってきた。あまり酔ってはいないらしい。 「そうしますか」  パブを出て、しばらく歓楽街のネオンのなかを歩き、ふたたび輝子は誘った。 「本庄さんのお部屋で飲み直すというのはどうかしら」 「ぼくの部屋、散らかってますよ」 「この際そういうこまかいことにはこだわらない」 「そうですか。じゃあ、あのコンビニで缶ビールでも買って行きましょう」  一郎のためらいのなさに、輝子は、彼もまた私と同じ気持ちでいたのかもしれないと、ひそかに勇気づけられた。  彼の腕に軽く触れてみた。相手は逃げなかった。  今度は腕をからませる。やはり一郎はなすがままになっていた。  一郎の部屋は、そのスペースのなかにキッチンもついている六畳のワンルームだった。カーペットはグレーである。  彼が言っていたほど室内は乱雑ではなく、男性の住まいにしては、むしろ片づいているほうだと、輝子は過去のいくつかの部屋を思い浮かべ、くらべていた。ミニサイズの冷蔵庫とテレビ、二人掛け用のソファにガラスのテーブル、文庫本などを入れたカラーボックスが置かれてある。  ただ壁ぎわのベッドがひどく味気なかった。  金属製のパイプをつなぎあわせたそのベッドは、病院のそれのようであり、シーツも白なら毛布カバーも枕カバーも白、しかもベッドカバーはなく、むき出しになっていた。 「青井さん、適当にすわってください。いまグラスを持っていきます」  輝子は小さなソファに腰をおろす。  運ばれてきた二個のグラスには、清涼飲料の会社のマークがくっきりと印刷されていた。  グラスを乗せたトレイはプラスチック製で、大きなミッキーマウスの顔がカラフルに描かれている。  盛りあがっていた輝子のロマンチックな気分は、グラスとトレイを見て、ややしぼみかけた。あまりにもムードがなさすぎる。  だが、突然に押しかけてきたのだから、一郎も用意するひまはなく、それに目くじらを立てるのも大人げない、と輝子が自分に言い聞かせたときだった。一郎はカーペットの上にすわりこみながら、少しの恥じらいもなく言い放った。 「このグラスとトレイは、前にここに住んでいた人が置いていったものなんですよ。管理人が処分しようとしたのを、ぼく、タダでもらったんです」  あいまいに笑い返すしかない。  その話を知ったいま、輝子はビールの入ったグラスに手をつける気にはなれなかった。どうしても不潔感をいだいてしまう。 「あれ、飲まないんですか」  仕方なく輝子はビニール袋のなかの缶ビールを取り出し、封をきったそれをじかに口に持ってゆく。 「私、いつも缶ビールはこうして飲んでいるの。このほうがビールらしい味がするから」  それでもパブでウィスキーの水割りの下地をつくってきたためか、缶ビールの二本目がからになる頃には、輝子はほろ酔いになっていた。目ざわりなグラスとトレイも忘れ去り、この部屋にやってきた本来の目的だけが頭をよぎりはじめた。 「本庄さん、私ね……」  言いながら、輝子は一郎ににじり寄り、その腕にからみつく。  相手は無言だった。拒否もしない。だが自分からは何もしようとしない。  輝子は彼がひとつ年下だったのを、にわかに思い出し、また同時に、彼のこのおとなしさは経験がないのかもしれないと想像した。  ためしに一郎の唇に自分のそれをそっと近づけてみた。彼はなすがままになっている。  想像は当たっている……そう判断した輝子は、自分がリードしなくてはコトが進まないと、ほろ酔いの神経で大胆にもなっていた。  一郎を立ちあがらせ、ベッドにむかう。  彼をあおむけに寝かせる。相手はなすがまま、すべてを輝子にまかせきっているようだった。  どうもやりにくい。たとえ初めてであっても、もう少し男らしい行動をとれないのか。おっとりした「おぼっちゃまくん」であろうとも、ベッドでは、もっと主体性を持って、男性特有のたくましさを示してほしい。  しかし、一郎はどこまでも受け身だった。  ワイシャツをぬがせ、スラックスをはぎとり、下着まで輝子の手をわずらわせた。  一連のそうした動きをしながら、輝子はつかのま、ここがベッドの上ではなく、オフィスにいるような錯覚にとらわれた。  パイプでできたベッド、その横のグレーのスチール製の机と椅子、机の上の無彩色の品々など、どれも職場の雰囲気を連想させ、オフィスでこまごまと一郎の世話をやき面倒を見ているのと同じ感覚がよみがえってくる。  相手をようやく裸にし、輝子は手早く自分の衣服をぬぐ。素裸になってベッドのなかにもぐりこむ。  ふたり並んで横になったベッドのなかで、輝子は待った。  一郎が積極的な行為に出てくるのを、息をつめて待ち望んだ。  どのくらい時間がたったのか。ついに輝子は我慢がならなくなった。 「眠ってしまったの」 「いや」  恥ずかしさをこらえて、一郎の股間《こかん》に手をのばした。  そこは力なく、しおれきっていた。  顔がほてるのを感じながら、輝子は、柔らかくて小さなそれを、軽く握りしめたり、撫《な》でさすった。  変化はない。  男性にはときおりこういう状態におちいることがあるとは、何かの雑誌で読んだ記憶がある。原因は心理的な要素が大きい、とも書かれていた。  そうかもしれなかった。  しかし現実にこういう状況になろうとは、これまでつきあった男性にはひとりとしてなかった。それに一郎はまだ二十二歳の若さではないか。  輝子は上体を起こした。相手の顔をのぞきこんだ。  一郎は、平然と天井を見あげていた。その表情には恥じらいも、申し訳なさも、哀願の気配さえなかった。  輝子はふいに泣きたくなった。  そしてわけの分からない怒りと憎しみがこみあげてきた。  激しい感情は抑《おさ》えようもなく輝子の全身を駆けまわり、気がつくと両手は一郎の首をつかみ、しめかけていた。  この人は本当に、ホントに何も知らない、何もできない男だったのだ。これがこの人の正体。それなのに、私はずっと買いかぶりつづけてきた——。  首をしめられ、せきこむ一郎のゴホゴホという声に、ようやくわれに返っていた。  ひと月後、輝子は退社した。  そのあいだ一郎を避けつづけ、言葉さえかわさなかった。  退社する前日、輝子は一郎に「さよなら」とだけ告げた。  相手はおっとりと言った。 「結婚するそうですね」  輝子は無視した。結婚を決めた男性は、かつての恋人で、いわばよりがもどったかたちだった。  一郎とのあの夜のいまわしさからのがれたくて、いったんは別れた恋人を、以前の輝子らしいわがままさで呼び出したのが、結婚へのきっかけとなってしまった。  だが、後悔はない。  一年後、輝子は辞めた会社の同僚と、偶然、街で出会った。 「おひさしぶり。コーヒーでも飲みましょうか」  彼女の話によると、一郎は輝子が会社をはなれてから、妙な自信をつけはじめたという。仕事も少しずつできるようになった。  そして、社内で得意げに言いふらしているという。 「青井さんは、結婚退職するとき、本当は、ぼくにとめてほしかったんだと思いますよ」  輝子は同僚と別れてから、深いため息をついた。  あの人は、なんにもわかっちゃいないんだ、そうやって、いつまでも何も知らないという自覚さえ持てない男。  けれど、なぜか憎みきれなかった。  少年、のひと言が頭のなかでひらめいた。  無邪気で、残酷で、他人の思惑など意に介せず、ひたすら自分の世界のなかで生きつづける少年、そういう自分に満足している稚《おさな》い心の持ち主。  一郎はまぎれもなく少年だった。  パッチワーク  かれこれ二カ月ぶりで部屋に訪ねてきた純子《じゆんこ》を、誠《まこと》はまぶしそうなまなざしで迎えた。  そんな表情の彼を見るのは久しぶりだった。  八畳ひと間の室内は、意外にもきれいに片づけられ、黒のカーペットには糸くず一本落ちてはいない。  以前はつねにひどい散らかしようで、土曜日ごとにやってくる純子は、まず部屋の掃除からはじめなければ、すわるスペースもない有様だった。  けれど、その頃の純子にとっては、それは数少ない張り合いのひとつにもなっていた。  整とんされた部屋の中を、とまどい気味に見わたしている純子の背後で、誠が照れくさそうに言った。 「今朝、大急ぎで掃除をしたんだ。せっかく純子がきてくれるというのに汚い部屋だと失礼だと思って」  とっさに振り返った。 (せっかく……きてくれる……汚い部屋……失礼だ)  これまでの彼からは、いっぺんとして耳にしたことのない言葉である。  大学一年からつき合いはじめて二十五歳のきょうまでの六年間、誠はけっして純子を甘やかさなかった。機嫌をとったり、下手に出ることもなく、あくまでも二年先輩の距離を保ちつづけてきた。  大学の「マスコミ研究会」で知り合った当初は、気骨を感じさせるそうした態度が、とても新鮮だった。会に参加している男子学生のほとんどが、軽薄といっていいくらいに口達者で、しかも内容のないおしゃべりにうつつを抜かしているなかで、誠はひときわ「男っぽい」存在感を持っていた。二年先輩とはいっても、純子は一浪しているため、年はひとつしか違わない。  誠の「気骨ある男らしさ」に、うっすらと疑いをいだいたのは、彼より二年あとに純子が大学を卒業して会社勤めをはじめてからである。  彼の「男らしさ」は肩幅のあるガッシリとした容姿と、女性の言いなりにならない頑固さが、一見まわりにそう思わせているだけであり、本当は、自分のことで精一杯というのが実状ではないだろうか。  会社勤めはつまらなかった。  不平不満が日ごとに強まるばかりで、誠のこの部屋にくるたびに、純子が口にする話題はどうしても職場への漠然とした悪口で、確かに聞いていて楽しい話ではなかったろう。  しかし純子は不満を語りながらも、半分は誠に相談しているつもりだった。あるいは甘えたかった。頼りになるはずの唯一の相手でもあった。  だが、誠は純子の不平不満の言葉のうらにかくされた一種の愛情表現を読みとろうとはせず、露骨に顔をしかめた。ときには冷淡なほどのそっけなさで、まともに話を聞こうともしない。  純子にしてみれば、はぐらかされたような落胆を味わった。 「男らしい」男というのは、もっと許容量《キヤパシテイ》のある、おおらかな対応をするのではないのか。  ひそかにうらみっぽい気持ちを持ちながらも、その頃の純子は、どこかで必死で誠にしがみついていた。  彼と別れたなら、自分の最後の支えを失ってしまう恐怖感があった。それほどまでに純子は追いつめられた心境になっていた。  そして土曜日ごとに彼のもとを訪ねては、散らかり放題の部屋を、めいっぱいきれいにするのが、おおげさではなく当時の純子の張り合いのひとつであり、生きがいでもあった。一年半前まで純子はそうした日々を送っていた。誠の邪悪な態度に耐えながら。  そんな彼だったはずなのに、きょうのこのまめまめしさは、いったいどうしたのだろう。  ぼんやりとつっ立っている純子に、誠はおもねるような口調で言った。 「どうしたの? すわったら。今、紅茶をいれるよ。純子の好きなケーキを買ってあるんだ」  かつては、そういう役割はもっぱら純子がはたしていた。誠はほとんど何もしなかった。  言われた通りに純子は黒いカーペットの上に腰をおろし、そばにころがっている座布団がわりのグレーのクッションを引き寄せる。  レースのカーテンにおおわれたベランダのガラス戸からは、夏めいた強い六月の陽《ひ》ざしがあふれるほどにさしこんでいた。  陽ざしは目の前の丈の低い黒のテーブルにも、まんべんなくそそがれ、テーブルの表面は水で濡《ぬ》らしたみたいな光の艶《つや》を生じさせている。  壁ぎわに並んで置かれたクローゼットも机も、その手前の椅子《いす》も黒なら、ベランダのカーテンも黒といった、黒ずくめの室内だった。  首をうしろにまわす。  黒籐《こくとう》のつい立てのむこうに、やはり黒いパイプ製のベッドが透けて見え、純子はあわてて視線をそらせた。  一年半前と同じく、そこにはパッチワークのベッドカバーが使われていた。  十センチ四方の黒と水色の布を交互に縫い合わせたそれは、純子の手製だった。  このほかに三枚のパッチワークのベッドカバーがあるはずで、合計四枚のそれは四季にふさわしい色合いと純子の好みを加え、ただ共通しているのは黒い布が基調になっている。この部屋の色調に合わせたのである。  夏用には水色、秋はベージュ、冬は白、春はグリーンの布が黒と組み合わせられ、デザインはまったく変わらない。  どのベッドカバーにも純子の深い思いと願いがこめられていた。  黒ずくめのこの部屋に自分自身が溶けこみたいと切実に望みつづけていた日々。  しかし、誠はついにそれらしき言葉を言ってはくれなかった。純子の会社への不平不満にうんざりした表情をかくそうともせず、むしろ、純子をうとましげに眺めるようになった、あの最悪の一時期。  今、純子はあの頃の誠と、多分、そっくりな感情で、黒と水色のパッチワークのベッドカバーから目をそむける。自分の残骸《ざんがい》ともいうべきパッチワークから。 「お待たせ」  誠がトレイにティーカップとケーキ皿をのせてテーブルにやってきた。  まぶしい陽ざしのなかでカップの湯気が陽炎《かげろう》のようにゆらめき、香りが匂い立つ。 「アップル・ティーね」 「ああ。純子、好きだったろう?」 「ええ……」  もはや、その好みは過去のものになっていた。  現在は関沢《せきざわ》の嗜好《しこう》に合わせて、上等な緑茶を愛飲し、コーヒーや紅茶へのこだわりは失ってしまっている。 「元気そうだな。仕事、うまくいっているの」 「転職してよかったと思うわ。時間は不規則で、まだ馴《な》れないから失敗も多いけれど、充実した毎日よ」  一年半前、純子は「マスコミ研究会」の仲間のつてで、会社を辞めて小さな編集プロダクションに入った。以前から興味のあったファッション関係の雑誌スタッフの一員に採用された。  誠がまたもやまぶしそうな視線をむけてきた。 「かなり忙しいんだろ。プロダクションに電話してもつかまらないし、自宅にかけても帰っていないとおふくろさんが言うし」 「忙しくても、やりがいがあるの」 「おれなんか、もう忙しさから逃げ出したいよ。新しくきた部長がやたらと口うるさくてまいっているんだ」  思わず皮肉っぽい言い方になっていた。 「あら、忙しいのは大好きだったんじゃなかったの?」  全国的に名の知れた大きな広告会社に入社した当初の誠は、それこそ仕事人間だった。  まだ学生だった純子には、その仕事への熱中ぶりが理解できず、会えない日が一週間、十日とつづくたびに、不信感にとらわれ、誠に他の女性ができたのではないかと苦しんだ。  純子の嫉妬《しつと》と、身の潔白を証明しようとやっきになる誠とのいざこざは、結局は社会人と学生とのギャップが原因だというところに落ち着く。  しかし学生の感覚では、どうしても納得しかねる部分も少なくはなく、誠からの連絡がとだえるたびに、純子は不安で胸がしめつけられた。  そして、ようやく誠から電話がかかってくると、ついきつい調子で問いただし、それが仕事で疲れきった相手の癇《かん》にさわる。  純子が大学を卒業するまでの二年間は、このくりかえしだった。  小さないさかいを何回となく重ねながらも、決定的な破局にいたらなかったのは、たがいの立場の違いを口で言う以上にわかり合っていたからだろう。  だが社会人として同じ土俵に立ったとき、それまで見えなかったものが鮮明になってきた。  ケーキを頬張《ほおば》りながら、誠がややすねた口調で言った。 「忙しいとはいっても、二カ月も連絡してくれないのは、あんまりじゃないか。プロダクションにも自宅にも、ちゃんと伝言を頼んであるのに、電話する時間ぐらいはあるだろ?」 「秒きざみで動いているものだから、うっかり忘れてしまうの。悪かったわ。ごめんなさい」 「いや、責めているつもりはない。ただおれたちのこれまでのつき合いを考えると、やっぱり、こう、ある程度の約束ごとが必要になってきたと思うんだよなあ、この頃」  関沢の顔が思い浮かんだ。  半年ほど前、仕事で世話になったのをきっかけに、四十歳の彼に接近したのは純子からだった。  もちろん関沢には妻も子もいるのを承知で、その家庭から彼を奪いとろうなどとは考えてもいない。  関沢といると、純子はとてつもなく安心できた。何を言っても柔らかく吸いあげてくれる相手だった。  誠の存在を聞いても関沢はたじろがず、むしろ第三者のように淡々として言ったりもした。 「正直なところおれはきみの責任はとれない。その彼と結婚したほうがいいんじゃないかな」  だが純子は関沢とは別れたくなかった。  誠の声にわれに返る。 「純子はどう思う?」 「えっ、何を」 「だから、俺たちの関係の将来的なことを」 「このままじゃいけないの?」 「いけないってこともないけれど、今のままだとあやふやになってしまいそうで……」 「そうかしら」 「そうだよ。げんに二カ月近くも会えなかったじゃないか。だから俺としては一応のとり決めをしておいたほうがいいのではないかと思うんだ」  かつてとは逆転していた。  だが誠の現在の気持ちは、純子がいっとき狂おしいほどに望んだそれよりも切迫したものではないだろう。  だいいち、彼は大学時代からの憧《あこが》れであった大手の広告会社にストレートに就職でき、彼の話によると営業マンとしての業績も着実に伸ばしていっているらしい。あの頃の純子の状況とはくらべものにならないほど恵まれている。 「先ざきのこと、そんなにあせらなくても……」 「いや、おれだってあせってはいないよ。ただ、なんとなくきちんとしておくべきではないかと……そう、けじめ、けじめとしてだ」  口調とはうらはらに、誠の表情は不安の色をにじませ、その目はせわしなくまばたきをくりかえす。  気づかれているのかもしれなかった。  関沢との仲はだれも知らない。  だが誠は六年間のつき合いのなかから、純子が微妙に変化していっているのを、直観的に嗅《か》ぎとっているとも考えられた。  彼は何もかも見抜いているのかもしれない。見抜きながらも、いったんそれを口にした場合の純子の返答が怖《おそ》ろしくて、知らぬふりを装っているのではないか。  これまでになく下手《したで》な態度をとり、純子の顔色をうかがうような表情をかいま見せるのが、それを端的に物語っている。  もし仮に、誠が男性関係を追及してきたとしても、純子はあくまでシラを切るつもりだった。  それに関沢に近づいていったときも、誠に申し訳ないことをしているという意識は、少しもわいてこなかった。  純子がいちばん誠を必要とした一時期、彼は顔をしかめるようにして、そっぽをむいていた。持てあますそぶりまで示した。  誠に激しく心を傾け、ひたすら彼の助けを求めつづけた日々、その一方では純子はたえまなくはぐらかされ、落胆し、ほぼひと月に一回ずつぐらい彼に失恋していた。  はためには、恋人同士と思われながら、実際にはふたりの関係は壊れかけていたといえるだろう。  その事実を認めまい、どうにかしてはぐらかしたいとの一念から、純子はあの四枚のパッチワークのベッドカバーをこしらえたのだった。  土曜日にこの部屋にくるにも、四角く切った布を入れた紙袋を持参し、誠の目の前でパッチワーク作りに励んだ。  ある種の当てつけと誠は眺めていたかもしれないが、そうすることで純子は自分の気持ちを伝え、理解してもらおうとした。  そんな純子のひたむきさに負けたに違いない。誠はついに別れをほのめかす台詞《せりふ》はひと言も口にしなかった。  母の卓上ミシンを借りて、四枚のベッドカバーがすべてできあがってからほどなく、純子に転職の話が持ちこまれた。  その頃から、純子の萎《な》えしぼんでいた活力が、めきめきとよみがえりはじめた。  誠との関係は相変わらずつづいていたが、その頃から少しずつふたりの立場は反対になっていったようだった。当時は、そうはっきりとは自覚していなかったけれど、純子のなかで誠よりも仕事のほうの比重が大きくなりはじめていた。誠からくり返し受けてきた一時的な「失恋」の苦《にが》さや痛みからものがれたかった。  だからこそ、関沢のことで彼に申し訳ないという感覚がないのかもしれない。  ふたたび誠がたずねてきた。 「今の仕事、ずっとやっていくつもりなの」 「そうできればと思っているわ」 「そんなに大変で不規則な仕事なのに、この先も大丈夫なのかなあ。体をこわすんじゃないか」 「そのときはそのときよ」  誠は一瞬、言葉につまったようだった。  それから、ひとり言めかしてつぶやいた。 「雑誌の仕事って、そんなに楽しいのかなあ。毎月、毎月スケジュールに追われっぱなしだというのに」  どこかしら軽蔑のニュアンスがふくまれていた。  純子は相手の顔を見ないようにして、さりげなく答える。 「私にとっては、ようやく、やりがいのある仕事にめぐり会ったのよ」 「ふうん……まあ、そう言われると、純子にはファッション関係の仕事は合っているかもしれないな。だって、ほら……」  誠は上体をうしろに倒しながら、黒籐のつい立てのむこうを指さした。 「あのパッチワークのベッドカバー、純子、一時期、取り憑《つ》かれたように夢中になって作っていたもんな。俺が感心を通りこしてあきれるほど熱中していた」  おや、と純子は意外に感じた。  誠の今の言葉からすると、彼は、パッチワーク作りにいそしむ純子の姿を、単に趣味に没頭していたとしか見なしていなかったように聞こえる。  当時のふたりの関係が最悪の状態におちいっていたことは忘れてしまっているのだろうか。  純子は、やはり何気なく言ってみた。 「結婚したかったのよね、あの頃。とても切実にそう思っていた……」  素直にそう打ち明けてしまえる自分に、純子は仕事のなかで成長してきた自分自身をはっきりと意識した。関沢とのかかわりで、率直に自分を表現する方法を、しぜんと教えられてもきた。何を言っても関沢はあたたかく受けとめてくれるためだった。 「パッチワークと結婚……なんかピンとこないな、俺には」  誠はすっかり冷えきったアップル・ティーをがぶりと飲みこむ。  その乱暴な仕草《しぐさ》と、目もとにチラリと走ったうしろめたそうな狼狽《ろうばい》の気配に、誠はあの頃やはりわかっていたのだ、と純子は察知した。  わかりながら、しかし彼は、会社の愚痴ばかり話す純子にへきえきしていた。とても結婚したい相手とは思えなかった、そういうことなのだろう。 「きっとあなたには私の屈折した気持ちがうとましいだけだったのね」 「いきなりどうしたんだ?」 「一浪までして志望の大学に入った。そして就職のときは、希望のマスコミ関係の会社を何社も受けたけれど、すべてダメ。結局は父のコネであの会社に入ったけれど……」  純子は淡々と自分に言い聞かせるように語ってゆく。過去のおさらいだった。 「女子社員の待遇ははっきりしていたわ。短大卒は事務職、大卒は総合職。ところが親のコネで入社した私は事務職採用だった……」  大卒の総合職の女性たちは、男子新入社員や上司たちにまじって、いきいきと仕事をしていた。  そうした姿を眺めているのは、たまらなかった。  一浪している自分は、あの新人の総合職の女性たちよりも年上ではないか。  彼女たちがやっている仕事は、自分にも十分やれる自信があった。  それなのに、親のコネで入ったがために、単調な事務職にしかつけない。  親のコネであろうとも、あるいは短大卒であろうとも、意欲のある女性なら総合職を選べるシステムが、どうしてないのか。  女性だけが学歴で区別され、型にはめられてしまうなんて、あんまりではないか。  組合もなぜこういう状況を黙認しているのだろう。 「あの頃の私は被害者意識のかたまりだったわ。自分だけどうして? って、いつも、いつも苛立《いらだ》っていた。でもね、短大卒の事務職の女性たちは私のように疑問はないらしく、かえって私のような存在は目ざわりだった。同期入社のある女性から言われたの。そんなに男と対等に働きたいなんて言わないでほしい、自分は普通に結婚して、専業主婦になるのが夢なんだからって」  会社ではひとりぼっちだった。  大学時代の女友だちのほとんどは、希望通りの、もしくはそれに近い企業に入り、不平不満を語り合える相手はいなかった。  そして誠だけが心の洗いざらいをぶちまけられる、たったひとりの相手のはずだったのだ。  だが社会人と学生の関係ではなく、同じ社会人同士になってみると、ふたりの違いは歴然とした。  ストレートに大学に入り、コネでなくストレートに志望企業に入社できた彼。  一浪して大学生になり、必死にその分野の一員になろうと試みたけれど、ことごとく失敗し、親のコネでまるで関心のない会社に入ってしまった自分、そこで与えられた仕事のつまらなさ。  加えて痛感されたのは「男と女」の差だった。  敗北感に打ちのめされながら、次第に妥協し、自分と折り合いをつけようとした。  せめて「自分を必要とする居場所」を見つけ出そうと「主婦むきの女」を演じた。  四枚のパッチワークのベッドカバーに、その思いをたくした。  が、誠はそれらしき約束すら言ってはくれなかった。 「純子の気持ちはなんとなく見えていた。しかし俺は仕事に精力を使いはたしていて、きみの暗くて沈んだ顔を前にすると、なんか、こうイライラしてしまった」  うつむきがちに言う誠に、純子は明るく答える。 「私が幼稚だったの。会社がつまらないのは、あなたのせいじゃないのに、妙に八つ当たりしたり、気のめいるような話ばかりして。私は結婚というものに逃げようとした」  ベランダからの陽ざしが、ややかげりをおびてきた。  はつらつとした透明な光に、暮れどきの淡いオレンジ色が流れこみはじめる。  日曜日のきょう、関沢は休日を返上して出勤しているはずで、夕方の五時にいつもの喫茶店で落ち合う約束になっていた。  そして軽い夕食をとり、例によって都心のホテルにゆくことになるだろう。  関沢が利用するそのホテルのダブルベッドのカバーは、だれの目も刺激しないベージュだった。  誠にプレゼントした黒を基調としたパッチワークのカバーは、この部屋の色調に合わせたとはいえ、見方によっては強烈な自己主張の色合せで、多分、ここ以外のベッドでは手にあまるしろものかもしれなかった。 「予定があるので、きょうはこれで帰るわ」  それは電話であらかじめ言ってあった。 「そうか……忙しいのにすまなかった」  誠が急速に元気を失ってゆくのが、ありありと感じられた。 「送っていこうか」 「ううん、すぐにタクシーをひろうから」  立ちあがって玄関に進みかけた純子のうしろで、誠が力なくたずねた。 「またきてくれるかな……」  その瞬間、純子の心に誠をあわれむような感情が走り抜けた。  かつて、誠にしがみつき、彼だけが自分を救ってくれると期待した自分の哀れなほど切実だった気持ちが、あざやかに思い出されてきた。  誠は、それほど切実ではないかもしれない。  だが、ここで別れを告げる勇気は純子にはなかった。  誠にしても、純子にかなりの愛想づかしをしていたはずなのに、無残な切り方はせず、ゆっくりと時間を待ってくれた。たとえ、内心ではそうしたかったにしろ、純子が立ち直るのを根気よく見守りつづけた。  純子は振り返らずに答える。 「うん、また寄らせてもらうわ」 「本当に?」 「私たち、もう六年のつき合いよ。そんな簡単にはなればなれになれるわけないでしょう」 「そうだよな、六年だよな」  違うのだった。  六年もかかわってきたから、あっさりと別れられることだってあるのだった。  しかし、今は、あえてそうはしない。 「じゃあ、帰るわ」 「ああ」  玄関のドアのそとに出る。  オレンジ色の大気が目にしみた。  これから先、何回この部屋を訪ねるようになるのだろう。  いずれにしろ、誠を傷つけるような別れ方はしたくはなかった。同時に関沢も大切にしたい。そして何よりも現在の自分が大事だった。  ウェディング・ベル  多美子は思いきって打ち明けた。  このひと月近く、考えぬいた挙句《あげく》の結論だった。  夜はろくに眠れず、食欲はうせ、みるみるうちに体重はへって頬《ほお》もこけた。  挙式まで、あと二カ月半。  披露宴の招待状は一週間後にいっせいに郵送する手はずになっている。 「宏《ひろし》さん、お願いがあります。一生に一度のお願いです」  そう言ってから多美子はバッグから婚約指輪の入った赤いビロードの小箱を取りだした。プラチナのリングが大粒のダイヤを支えている、かなり高価な品だった。 「これを、お返ししたいのです」  コーヒーカップをつかみあげた宏の手が途中でとまった。  その目は見開かれ、どんな表情も宿ってはいない。多美子の言ったことが、すぐにはのみこめない様子だった。  数秒後にようやく宏の顔に変化があらわれてきた。驚きのあまり、ひたすら愕然《がくぜん》としている。 「それは、つまり、結婚を取りやめるという——」 「申し訳ありません」  多美子はうつむく。  悪いのは、この私だ、どれだけ罵《ののし》られようとも覚悟はできている。その覚悟がつくまで、ひと月間、悩みつづけてきた。  宏がかすれ声でたずねた。 「いきなりそう言われても、事情を説明してくれないか」  内心の動揺を必死に抑《おさ》えているのだろう、ふだんとは違ったかすれ声に加えて、語尾があいまいに細まってゆく。 「すべて私のわがままです。宏さんは少しも悪くはありません」  顔をあげられなかった。すまないと思う気持ちが強く働いて、相手を正視できない。 「それは説明になっていないよ。もっと正直に話してほしい」 「だから、私のわがままで、まだ結婚したくないというか、その勇気が、自信がないというか」 「その点なら大丈夫だと思うな」  ふいに宏の口調に尊大なひびきがこめられてきた。 「きみは二十五歳、ぼくはじき三十一になる。世間的にはリッパな大人だ。いや、多美子さんが不安をおぼえたにしても、このぼくがそんな不安はすぐに取りのぞいてあげるよ。信頼してくれないかな」  そういう問題ではなかった。  だが、本当のことを口にしたら、宏は確実に傷つくだろう。  自分の身勝手とわがままという理由に徹しておくのが賢明なやり方のはずだった。  口ごもっている多美子に、宏はさらにたたみかけた。教え、たしなめる口ぶりである。 「多美子さんは外見よりずっと稚《おさな》いところがあって、それがぼくには魅力でもあるけれど、いつまでもそのままだと、きみ自身が困るんじゃないかな。ま、ぼくはこの調子でいくと、十年後には支店長クラスってとこだろうけれど、そうなると女房の社交センスも問われてくるからね」  多美子は激しい反発を感じた。  見合いから半年もたっていないというのに、この人は私の何を理解しているつもりなのか。  私が稚い?  そうかもしれない。ある一面ではそれも当たっているだろう。  精神的に稚く、未熟だから、結婚もやめたいなどという、とんでもないことを言いだしたと見なされても仕方がない。  だが自信満々なこの態度は、なんという鼻持ちならないエリート意識なのか。  十年後には支店長クラスになれると、疑いもなく口にだせるある種の鈍感さは、これまでもうっすらとは察していたけれど、こうまであからさまではなかった。  もしかすると、多美子の予想外の申し出に、彼なりに相当にうろたえ、自制心のタガがはずれてしまったのかもしれない。  しかし、一見したところ、宏のたたずまいは落ち着きはらっていた。  伏し目がちにしている多美子の、その内心には気づかず、宏はいっそう調子づいて言った。多美子の無言を、自分の言葉に素直に耳傾ける、しおらしさと勘違いしたらしい。 「さっきの話は聞かなかったことにするよ。だれにでも一時の迷いというか、自信を失うときがある。むしろ、そのくらいの謙虚さのある女性のほうが好ましい。ぼくからするとね」  反発がまたもやわきあがってきた。  思わず多美子は首を立て口走ってしまっていた。 「私、好きな人がいるんです。だから、あなたと結婚したくない」  宏の顔面が急速に赤くなり、次にはその色が足もとになだれてゆくような蒼白《そうはく》さに変わった。 「とにかく、ここをでよう」  そう言うなり、宏は伝票を手に椅子《いす》から立ち上がり、出入り口そばのレジにせわしなくむかう。  日曜日の午後、人気もまばらな喫茶店の中でするには、ふさわしくない話題ではあった。  公園のベンチに並んで腰かけ、多美子は宏に問われるままに返答していった。  たがいに短い言葉のやりとりに終始した。 「どんな男なの」 「三十七歳、妻子がいます」 「きみとの将来の約束は」 「何も」 「どのくらいつきあっていたの」 「二年ぐらいです」 「ぼくと見合いしてから別れたのか」 「いえ、その半年前に」 「なぜ」 「疲れました」 「でも、いまだに好きなのだろう?」 「私の一方的な気持ちです」  そこで会話はとだえた。  夏の終わりと秋の始まりを告げる、さらりとした、けれど、ところどころに妙な熱っぽさをはらんだ風が、ときおり流れてゆく。  その風に、多美子の肉の薄い胸もとで結ばれた白いブラウスのボウ・タイが、はかなげに揺れる。小さくはためく。  齢《とし》のわりには押しだしのよい堂々とした体格の宏のネクタイが、風の勢いによじれたり、裏返ったりする。サラリーマンの定番ともいうべき紺色の無難な色合いのネクタイだった。それ以外の色系統のネクタイを彼がしめているのを、多美子は見た記憶がない。また、日曜の日中のデートでも、必ず背広上下でやってくる。  どのくらいの時間がすぎたのか、宏は快活さを取りもどした。 「二十五にもなる女性が、過去に何もなかったというほうが不気味だ。むしろ、きみが正直に打ち明けてくれて、すっきりした気分だ」  快活さのなかに、無理を感じた。  あえて、そう言い放つことで、自分自身を元気づけているみたいに聞こえた。  短大を卒業してから、すでに五年の会社勤めを経験している多美子には、宏のそうした心のからくりがわからないではなかった。  挙式を間近にひかえて、突然の婚約解消の事態は、彼のサラリーマンとしての面目《めんもく》がまるつぶれになってしまうに違いない。  結婚の話は社内中に知れわたっているだろうし、だいいち、仲人役は彼の上司がやることに決まっている。  しかもエリート・コースを着実に歩んでいるらしい宏としては、自分の人生の設計図には、汚点めいたものはひとつもつけたくないと同時に、プライドも許さないだろう。  宏のつらい立場も理解できる。  しかし、と多美子は思う。私はこの人を愛してはいない、愛する人は別にいるのだ。  考えが甘かった。  妻子ある男性との関係に疲れはて、やり直したいと望んだのは事実である。  だから両親のすすめる見合いをしてみた。先方はいたく多美子を気に入ってくれ、結婚を前提にした交際を求めてきた。まわりのだれもが良縁だと拍手を送った。  そのときは多美子も期待した。自分がいつか相手の男性を愛するようになるだろうと。  けれど宏との交際は、別れた男性を鮮明によみがえらせる皮肉な結果になっていった。  デートを重ねるごとに、別れた相手の仕草《しぐさ》や癖がなまなましく思い出されてきた。  宏のせいではなかった。  相手が彼以外の男性でも、結局は別れた男の面影を引き寄せてしまうに違いない。  多美子の心のなかでは、妻子ある男性との関係はまだ終わっていなかった。  宏にプロポーズされたあの瞬間、多美子はそれに気づくべきだったろう。  だが、そこでもふたたび自分に期待した。過去の恋人を忘れて、再出発《スタート》できるだろうと自惚《うぬぼ》れた。  ダイヤの婚約指輪をもらってしばらくしてから、宏がそれとなくホテルに誘う台詞《せりふ》を口にした。  そのとたんだった。  多美子の全身は嫌悪感に鳥肌立ち、想像しただけで吐き気がこみあげてきた。  宏に気づかれまいとして、無言のまま必死に首を振って拒否した。その拒み方を、宏はかえって初心《うぶ》と好意的にとらえたらしく、それから二度とそうしたそぶりは見せなかった。  その日から多美子は深刻に悩みはじめた。  結婚はできないのではないのか。  自分のやろうとしていることの非常識さや身勝手さは、いやというほど承知していた。  しかし、吐き気を伴うほどの嫌悪感をいだきながら、宏とベッドをともにするのは不可能だった。  そして、彼にそういう自分の心理状態を、理性ではどう解決もできないそれを語ったとしても、おそらく言葉どおりには受けとめてもらえないだろう。  最悪の場合は、彼の男性としての自信を喪失させる結末になるかもしれなかったし、多美子の精神状態を怪しまれないともかぎらない。  それを事前にわかっていながら結婚するのは、サギ行為にひとしいのではないか。  ひと月近く考えつづけ、ついに多美子は婚約の解消を申しでようと心に決めた。  宏がベンチから立ちあがった。 「決心したよ、ぼくは。今のきみの心には別の男が棲《す》んでいる。しかし、ぼくの愛情でそいつをきみの心から追っぱらってやる」  意地でも実現させるというふうに、宏は両のこぶしを固く握りしめる。  そして、おのれを励ますようにつぶやいた。 「ぼくはこれまで一回も負けたことがないんだ。ほしいものは、すべて手に入れてきた」  多美子は、先刻の反発はもはやおぼえなかった。あらためて自分の非を、宏を巻きこんでしまった軽率さを振り返り、打ちひしがれた心地におちいっていた。  ただ遠慮がちに懇願《こんがん》した。 「お願い、宏さん。私のことはあきらめて。私、結婚はできないの」  言い終わらないうちに、怒鳴り声が返ってきた。 「わがままもいいかげんにしろッ。結婚式まで、あと二カ月ちょっとにもなって、そんなみっともないことができるか。おれの立場にもなってみろ。きみの過去にはこだわらない。おれは忘れる。だから、もうバカなことは言いださないでくれ。これ以上、おれを困らせないでくれ」  披露宴の案内状は発送された。  数日たつと、出欠の返事を記した葉書が次々と返送されはじめた。  宏と婚約した時点で、多美子は会社に退職願いを提出していた。それも残すところ半月後にせまり、それから挙式までのひと月半は、新婚生活のこまごまとした買い物や準備に追われることになる。  多美子は家でも会社でもふさぎこんでいた。何をしても気が晴れなかった。  両親は、そんな浮かない表情の娘を、親もとをはなれる淋《さび》しさや感傷にふけっているのだろうと見なし、いつにない気づかいを示してくれた。  職場の同僚たちは、多美子の物思いにふける様子を、今から新婚生活の甘さにひたっているのだろうと解釈して、からかいのタネにした。  だれにどう思われ、言われようとも、多美子はあいまいにほほえみ返すしかなかった。  つらかった。  内心をありのままに語れる相手はひとりもいない。  体のなかに不治の病をかかえた人間のように、多美子は日に日に痩《や》せていった。  それとともに、ウェディング・ベルの音が、頭のすみでたえず幻聴みたいに鳴りひびき、ときには騒音の激しさになって多美子を苦しめた。  退職する前の日、多美子は何かに憑《つ》かれたように、妻子ある男性の勤務先に電話をかけていた。ほぼ一年ぶりの連絡だった。  相手はいぶかりもせず誘いに応じてくれた。  その夜ふたりは以前によく利用していたホテルのバーで落ちあった。照明の仄暗《ほのぐら》い、なぜか人目をしのぶ、いわくありげなカップルばかりが集まるバーで、秘密クラブめかした雰囲気が漂っている。  カウンターに並んで腰かけ、多美子は唐突に打ち明けた。 「私、結婚するの」  相手は予想していたらしく、まったくたじろがなかった。 「そうか。よかったじゃないか。おめでとう」 「それは本心からの言葉?」 「これ以上どう言えばいいのかな」  多美子は切実な思いをこめてたずねた。 「今でも私を愛してくれてるのかしら」 「わたしには家庭がある」 「わかってるわ。それを承知のうえで、きいているの」 「きみには幸せになってもらいたい」  頭のなかでウェディング・ベルががんがんと鳴りだした。苦痛になるくらい、その音はすさまじかった。 「もし、私が結婚を中止したら、以前の関係にもどれる?」  返事はなかった。  しばらくして相手はうめくような小声でつぶやいた。 「そこまでの責任は取れない。多分、そうなったときは、ふたりでいても楽しさより苦しみが重くのしかかってくると思う」  多美子は下唇をかんで、つかのま、うつむいた。  それからカウンター前のスツールからおりて、きっぱりとした口調で言った。 「今夜はどうもありがとうございました。そして、さようなら」  目前のカクテル・グラスには、ついに口をつけなかった。  会社を辞めた多美子は、ほとんど毎日のように宏との新居になるマンションの部屋に通いだした。  そうやって少しずつ生活必需品を買いそろえ、自分の気持ちもかき立てていった。  キッチンや浴室まわりの用具は、宏からまかされていたけれど、大きな家財道具は、土・日曜日を利用して、彼の運転する車で専門店を見てまわった。  食器棚、食卓用のテーブルと椅子、ソファ、カーペット、インテリアの小物のかずかずなどが週ごとにふえてゆき、がらんとしていた空間は次第に住まいらしいていさいを持ちはじめた。  だが最後に大きな買い物が残っていた。  ベッドである。  多美子は巧みに宏の関心をそこにむけないようにし、先のばしにしていたけれど、もはや避けられない状況にいたっていた。ベッド以外は、すべて買いととのえられているのだから。  挙式を二週間後にひかえた土曜日の午後、ふたりは、その品ぞろえと趣味のよさで評判になっている北欧家具の店にでかけた。  冷静に眺めたなら、どれも目移りするぐらい魅力あふれるデザインや色調のベッドだったけれど、多美子はほとんど目をそむけたい心境だった。実際、額や首すじに、うっすらと脂汗がにじんでいた。 「このダブルベッドなんか、どうだろう。シックでしゃれていて、それでいて押しつけがましくないデザインだし」  宏のはずんだ声に、店員も深々とうなずき、多美子に取り入るようにすすめてきた。 「毎日お使いになるものですから、飽きのこない、造りのしっかりした品という点では、このベッドは最高級でございます」  明るい木製の、丈の低いダブルサイズ、カバーは幾何学模様で、くすんだレンガ色やグレー、ベージュ、黒などがまじりあっている。  宏はかなり気持ちをそそられている感じだった。 「きみ、これにしないか」  このベッドで宏と一緒に寝るのか、寝なくてはならないのか、圧迫感に耐えながら、多美子はベッドを横目で見る。  ふいに突拍子もない高い声で叫んでいた。 「いやよ、ダブルベッドはいや。ツインがいいわ、ぜったいにツインのベッド」  宏と店員はあっけにとられ、やがて宏が多美子の腕をきつくつかみあげ、怒りのこもった低い声でささやいた。 「スペース的にツインは無理じゃないか。それはわかっているだろう。そんなヒステリックな言い方はするものじゃない」  ウェディング・ベルの音が、宏の言葉とともに鳴りひびいた。 「やめて」多美子はまたもや叫んだ。ウェディング・ベルにむけて言ったつもりだった。  だが、それは宏への返答のようにしか聞こえなかった。  腕をつかんでいる宏の手に、さらに力がこもった。 「どうしたんだ。何をそんなにムキになっているんだ」 「ツインのベッドが駄目なら布団にしましょう。ふた組の布団を買うのよ」  言ってから、多美子はわずかな救いを発見した明るさにつつまれ、いっそう声を張りあげた。 「そう、布団にしましょうよ。ダブルベッドなんかより、ずっといいわ。こんなベッドなんて、私、大嫌い。いやらしい。けがらわしい。醜いわ、ダブルだなんて」  ぐいっと体を引っ張られた。  宏は多美子の腕を強くとらえたまま、足早に出入り口へ進んでゆく。  そのあいだ多美子はダブルベッドを罵倒《ばとう》する言葉を吐きちらしつづけた。  店の前の駐車場に置いてあった車の助手席に押しこまれる。宏も運転席にすわる。  そのとたん、多美子の頬に宏の手が走った。 「まだおれに恥をかかせるつもりか。結婚したくないの次はこれか。もうあの店には顔むけできない、そのくらいの醜態をさらしたんだぞ、きみは。おれがどれだけたくさんの我慢をしているか、わかっているのか。これで世間体も会社のこともなかったなら、きみのような女とはだれが結婚するものか。いいか、我慢して結婚してやるんだ」  多美子は殴られた頬を手で押さえながら、ひと言も言い返さなかった。  宏の今の言葉を逐一《ちくいち》頭にたたきこむ。  静かな憎しみが胸の底でうごめきはじめる。  この人は父にも殴られたことのないこの私を何のためらいもなくぶった。  我慢して結婚してやる女だから、殴っても当然なのか。  結婚してほしいと私が頼んだわけではない。  もちろん、最初の非は私にある。婚約する前に、交際をやめるべきだった。  けれど、婚約を解消してくれと言ったとき、この人は私を引きとめたではないか。  エリート・コースからはみだしたくないがために。会社や世間の物笑いになりたくないがゆえに。  それなのに、私を殴った。  平気で殴る——。  宏は乱暴に車をスタートさせた。  顔面が多美子への腹立ちといまいましさでふくれあがっていた。  暴力をふるったことについては、最後まで謝らなかった。  鏡に映しだされた自分のウェディング姿を、多美子は冷ややかに見つめた。 「まあ、きれいだこと」 「すてきな花嫁姿ですわ」  母や叔母、そして会社の元同僚たちの賛辞も耳を素通りしてゆく。  タキシード姿の宏も部屋に入ってきた。 「うん。よく似合うじゃないか」  そして、まわりの人々に冗談めかして言う。 「馬子《まご》にも衣裳《いしよう》、とはこのことですね」  笑い声が起きる。人々は宏がわざとそんなふうに照れをごまかしていると受けとめたらしい。  しかし、多美子は、それは宏の本心からの皮肉であり、厭《いや》がらせだと直観的に見抜く。  ホテル側の案内係がやってきた。 「みなさま、お式まであと二十分ほどですので、よろしくご用意のほどを」  人々が控え室のほうに移っていく。  部屋にはメイク係と着付係のふたりの女性だけが残った。 「あのう」  多美子は申し訳なさそうに言った。 「私またちょっとおなかの具合が。お手洗いに行きたいのですけれど」 「あらら、大変。ではヴェールだけはずしましょう。でも、ドレスのすそ、大丈夫かしら。そうね、軽くピンで持ちあげておきますから」 「すみません」 「いいんですよ。緊張されると、どうしてもね。あ、お手洗いは廊下をでて、右手にありますから」  ウェディング姿のまま、多美子は部屋をあとにした。  小走りになって、トイレに駆けこむ。  ドアを開けたすぐ手前は、壁が鏡面になった化粧直しのコーナーで、ピンクのカーペットの上に、いくつものスツールが置いてある。  その奥が洗面所、つきあたりに個室が並んでいる。  化粧直しコーナーのすみには、大きな紙袋がひとつ、いかにも忘れ物のように置かれてあった。それは、ヘア・メイクをすませたあと、ドレスを着る直前に、多美子が運んでおいたものだった。やはり、おなかの具合を口実に着がえ室からこっそりと持ってきておいた。  紙袋を手に、洋式トイレの個室に入る。  数分後、個室からでてきた多美子はジーパンにセーター、カールされた髪はうしろで束ねられている。ウェディング・ドレスはざっと折りたたみ、紙袋に押しこんだ。  サングラスをかけ、肩にかけたポシェットからワープロで打った紙片を取りだして、紙袋にピンでとめる。「衣裳係にお返し下さい」  わざとエレベーターを使わずに、階段をおり、ホテルのそとにでた。腕時計をのぞく。挙式まで、あと五分、両親の顔が思い浮かび、かすかに胸が痛む。  けれど、こうするしかなかった。  いや、こうしてやりたかったのだった、宏に対して。  ホテル前からタクシーをひろい、自宅の住所を告げる。 「で、そのあと空港に行きますので」  自宅からスーツケースを持ちだし、昨夜、両親あてに書いた詫《わ》び状を居間の目につきやすい所に置いてこなくてはならなかった。  ハワイ行きの便まで、あと三時間。  頭のなかのウェディング・ベルの音は、いつのまにか消えていた。  誘 惑  ぺらぺらとよくしゃべる調子のよい男だった。  話の内容は、はっきり言って、くだらない。タレントの噂《うわさ》、自分の自慢、情報誌から仕入れてきた今はやりの店のこと、きのう観《み》たテレビ番組についての事こまかい説明。  だが不思議だった。  くだらないおしゃべり、と思いながらも、その口調の明るさとテンポには、独特なリズムがあり、気がつくとあっというまに一時間がすぎている。  典子《のりこ》はもっぱら聞き役だった。ほとんど口をはさまない。  忠夫《ただお》ひとりがしゃべりまくる。  最初の出会いからそうだった。  大学の近くに新しい喫茶店ができ、シックで落ち着いた雰囲気は、妙に心に馴《な》じんで、典子は大学の帰りにひんぱんに立ち寄った。特にカウンターのいちばん奥の席は読書するには最適な場所である。照明が真上からふり落ちてくる。  大学祭のにぎわいも一段落した十月も中旬の夕方、その店に入ってゆくと、あいにくカウンターの奥の席はふさがっていた。  派手なチェックのシャツの襟もとから、白いTシャツをのぞかせた、色の黒い丸顔の男が、その席にすわって、しきりとカウンターの内側にいるマスターに話しかけている。  典子は仕方なく出入口のそばのカウンター席に腰かけようとした。  そのときだった。  黒い丸顔の男が人なつっこく声をかけてきた。 「ちょっと、そこの彼女、席をゆずるよ。この席がお目あてなんだろ?」  言いながら、すぐに男は立ちあがり、水の入ったコップを手に隣の席に移りかけている。 「すいません」  典子は小声でそう礼を述べ、奥へと進む。  椅子《いす》に腰をおろし、コーヒーを注文する。すると、待ちかまえたように男がきいてきた。 「C大学の学生?」 「ええ」 「だろうと思った。おれもC大の二年でさ、齢《とし》は二十二だけど、ほら、浪人しているから。何年生?」 「二年です」  それから男は一方的にしゃべりはじめた。この店で何回も典子を見かけていること、いつもカウンターのいちばん奥の席を好み、つねに本を読んでいるのを奇妙に思っていたこと、彼氏はいないのかと好奇心をそそられていたことなどを、軽いリズミカルな調子で語った。 「だってさ、おれなんか本を読むと頭が痛くなるたちだから、本好きな人間って、ホントに理解できないんだよね。しかも、いつだってひとりだろう。彼氏のいない淋《さび》しさのうめあわせに、せっせとこの店にくるのか、なんて想像しちゃってさ。ね、マスター」 「私にだって、つきあっている人ぐらいいます」 「わかってるよ。彼女みたいな女性を、男たちがほうっておくはずがないもの。おれの彼女はK大の一年だけど、きみの彼氏は?」  初対面にもかかわらず、どんどんこちら側に押し入ってくる男だった。またそれがまるで嫌味のないしぜんな態度で、こちらの警戒心をときほぐしてしまう。  男のペースに典子もいつのまにか巻きこまれてしまっていた。 「私の彼はM大の四年」 「あ、じゃあ、もう就職先は決まっているんだ」 「いえ、大学院に進むとか」 「へえ、頭、いいんだ。おれの彼女も有名私立大だろう、おれとはガクッと差がついちゃって。なんせ頭のいい女だからさ。ところでこの店にくる曜日はたいがい何曜日?」  それが忠夫だった。  そして三回目に会ったきょう、忠夫は例によってたわいのないおしゃべりをひとしきりしたあと、突然に言った。 「おれとつきあってくれないか」 「そんな」びっくりして言葉がでてこない。  が、忠夫は平然として、ふたたび同じ台詞《せりふ》をくり返した。 「だってしょうがないだろう、好きになっちゃったんだから。おれは彼女がいるし、きみにも彼氏がいる。でも、それとこれとは別なんだ。な、いいだろう、おれとつきあってくれよ、頼むよ」  強引な口説《くど》きだった。見栄《みえ》もプライドも捨てて、忠夫は食いさがってきた。  こんなふうに男から言い寄られたのは、はじめてのことで、典子はどう対応すべきなのかわからない。  M大四年の彼との関係も、グループ交際のなかで、なんとなく親しくなった感じであり、どちらかが積極的に行動したわけではなかった。 「な、ノリもおれのこと、嫌いじゃないんだろう? 彼氏には黙っていればすむことじゃないか。頼むよ、おれの彼女になってくれよ、なあ」  悪い気持ちはしなかった。「きみ」が「典子」ではなく、一気に「ノリ」という呼び方に変わっているのも、急にふたりの心理的な距離がちぢまったような錯覚をもたらす。  たっぷり三十分間、忠夫は哀願しつづけた。  本当に調子のよい男、心のすみで淡い軽蔑心をいだきながら、しかし、ここまで哀願されて悪い気持ちではない。典子はあいまいにうなずいてしまっていた。  忠夫とは体の関係は持つまい、M大の彼に申し訳がない、典子は固く決意していた。  最初の頃、忠夫はしつこく迫ってきたけれど、そのたびに典子のかたくなな拒否にであい、ようやくあきらめた様子だった。  ふた月がすぎた。  これといった理由もなく、典子はM大の彼との仲が妙にぎくしゃくとしたものになってきたのを感じた。一緒にいても以前のような楽しさはなく、むしろ無言のうちに、くすぶった気配が漂ってくる。相手も漠然とした違和感をおぼえているらしく、ときどき、ひどく冷ややかなまなざしで典子を見る。  だが彼は忠夫みたいに感情をむきだしにするタイプではなかった。物静かな性格の点では、典子と似た者同士といえた。  やがて典子は、相手のその物静かなたたずまいに不満をいだいている自分の気持ちを知った。  忠夫の、あのくだらないおしゃべりを、まったくの無内容と思いながらも、じつは心地よく受けとめていた自分がいた。話の中身ではなかった。忠夫の軽快でリズミカルな口調は、典子の耳や肌をほどよく刺激し、それがひとつの快感になっていたのだ。  M大の彼と会う回数は次第にへってゆき、ある夜の電話でたがいに別れを告げた。短いやりとりで、あっけなく終わってしまった。 「潮どきかもしれないと思うんだ」 「そうね、私もそう思う」 「この一年楽しかったよ。それじゃあ」 「元気でね」  淡々とした別れは、しかし、あとになって後悔に変化してきた。M大の彼は、あらゆる面で、忠夫よりも、はるかに信頼できる人間だった。まじめさ、物事に対する判断力、落ち着いた物腰、頭のよさ。  ただ唯一、忠夫が彼よりすぐれているのは強引さとマメさだった。実際、忠夫は「彼女」との関係も持続させながら、典子の家に毎日電話するのを欠かさなかったし、三日に一回は会おうとする。だが、それは、はたして忠夫の誠実さと解釈してもいいのか。本当に誠実な男であるのなら、彼女がいながら、気やすく典子に交際を求めてくるだろうか。  M大の彼と別れてから、典子はしばらく忠夫と会うのを避けた。じっくりと考えてみたかった。  しかし忠夫は動物的な嗅覚《きゆうかく》とでもいうような敏感さで、そんな典子の心境をすばやく察知し、これまでにもまして、ひんぱんに電話をかけてきた。一日のうちに何回もかけてくるのである。 「ノリ、どうしたんだ。何があったのか打ち明けてくれよ。水くさいじゃないか」 「別にないわ」 「あ、そんな冷たい言い方ってあんまりだろう。おれがこんなにノリのことを心配してるのに。ノリが元気がないと、おれまで落ちこんじゃうよ」  しんそこから典子の身を案じている口調に、つかのま心が動かされた。たっぷりとした感情を言葉にふくませるしゃべり方は、忠夫ならではのものだった。 「なあ、ノリ、おれにだけは甘えてくれよ」 「私、彼と別れたの」  数秒間の沈黙ののち、忠夫はため息まじりに神妙に言った。 「そうか。悪いことしちゃったな」  とっさに言い返していた。なぜか、忠夫を自惚《うぬぼ》れさせたくなかった。 「あなたのせいじゃないわ。彼とは前からもめていたの」 「今のおれがノリにしてやれることはないのかなあ」  それを聞いたとたん、典子は自分でも思いがけない要求を口にしていた。 「彼女か私か、どちらかにして。頼んでいるんじゃないの。あなたの気持ち次第よ」  嘘《うそ》ではなかった。忠夫がどちらを選ぼうとも、それなりに納得する。ただ、彼が誠実な男なのかどうか、それを見きわめたい。 「わかった。ノリ、少し時間をくれ」  数日後、忠夫は電話で伝えてきた。 「あいつとは別れた」  数カ月後の日曜日の午後、典子は忠夫とのデートにでかける仕度をしていた。四時に彼が家まで迎えにくる予定だった。  四時少し前、忠夫から電話がかかってきた。 「ごめん。きょうはダメになっちゃった。佐藤のところにいかなきゃならないんだ。ゼミのことで」  佐藤とは忠夫の仲のよい男友だちのひとりで、典子も何回か会ったことがある。  いきなりのキャンセルに、典子は落胆した。大学の帰りの待ちあわせとは違い、ひさしぶりの本格的なデートに心はずませて、めいっぱいおしゃれしていたのだった。ていねいに化粧もした。新しい下着も身につけていた。  だが典子は忠夫を責めなかった。つねに物分かりのよいふりをしてきた手前、ここでみっともない真似はできない。 「そう、ゼミのことで。大変ね。私のことは気にしないで」  哀《かな》しさをかくして、つとめて明るく答えた。  電話をきってから、典子は胸さわぎがしてならなかった。ここ数週間、忠夫の言動のはしばしに不審感をおぼえることが多々あり、これといって指摘はできないけれど、淡い疑いと不安が心の底に宿りつづけていた。  にぎやかにおしゃべりしていた途中で、ふいに言葉を失念し、うつろに宙を見あげるまなざし。路上を並んで歩きながら、しきりとまわりにせわしない視線を投げかける、おびえに似た態度。どこかうわずった電話での声と、ワンテンポずれた反応。  あるいは、と典子は思った。また新しい彼女でもできたのではないか。  佐藤に確かめてみたかった。けれど電話番号がわからない。NTTの104番をまわしてみたが、電話帳には登録されていないという案内係の返事だった。  胸さわぎはいっそうつのってくる。じっとしてはいられない気持ちのまま、典子は佐藤の住むアパートを訪ねてみようと思い立った。彼の部屋には、忠夫とともに二回遊びにいったことがあり、住所は記憶に真新しい。それにデートのために、でかける準備もしたついでだ、と典子は自分に言い聞かせた。  電車を乗りついで佐藤の部屋にたどり着くと、そこには忠夫の姿はなかった。 「ゼミの打ちあわせ?」佐藤はいぶかしげな表情で問い返した。 「やつとはそんな約束してないぜ」  翌日、大学近くのいつもの喫茶店で落ちあったとき、典子は忠夫に何度もうながした。 「何か私に言いたいことがあるんじゃないの?」 「どうしたの、ノリ。そんなコワイ顔して。だからさ、きのうのデートの件は謝るから。佐藤に急に頼まれて、断わるわけにもいかないしさ」 「違うでしょ。私の言っている意味、わかっているはずよ」 「おい、おい、からまないでくれよ。ノリらしくもないよ」 「はぐらかさないで」 「だからさ、いったいおれはどう言えばいいわけ? ノリの気がすむわけ?」  あくまでも逃げを決めこもうとする忠夫に、典子は苛立《いらだ》った。忠夫を見すえるようにして、おもむろに口をきる。 「きのう、あれから佐藤さんのアパートに私いったのよ」  忠夫の表情が固くなった。 「つまり、そういうことよ。なぜ嘘をついたの」 「すまない」  拍子抜けするほど、すばやく、素直に忠夫はわびた。  そして、以前からつきあっていた彼女にどうしても別れを言いだせずにきょうまできてしまったこと、彼女への想いも断ち切れないことを、少しの恥じらいもなく語った。  典子を思いやるよりも前に、自分自身の気持ちを率直に伝え、それを理解してもらいたいというような虫のよさだけを感じさせる口ぶりだった。 「それほどまでに彼女が好きなのに、どうして私とつきあったのよ」 「理屈じゃないだろ。それぞれの良さがあるもの、選べないよ」  典子は立ちあがった。  二度と忠夫の顔など見たくなかった。  一週間後、忠夫からの手紙が郵送されてきた。  謝罪の文面ではなかった。どこまでも貪欲《どんよく》で身勝手な心情を、臆面《おくめん》もなくさらけだしていた。  典子と彼女の両方とも、同じくらい好きなこと、「こんなおれでもよかったら」とつづき、日時と場所が指定してあった。「ノリとも別れたくない。わがままなのは十分に承知しているけれど、これがおれの本心なんだ」  典子ははなから相手にしなかった。指定された場所にいくかわりに手紙を書いた。 「もういっさい会いたくありません」  忠夫はおとなしく引きさがらなかった。  手紙が届いたという電話をきっかけに、それからも、しょっちゅう電話をかけてきて典子の同情と関心をひこうとした。  典子は適当にあしらいつづけた。  ふたりの女を同時に自分のものにしておこうとする、女たちの気持ちを無視した忠夫のやり方は、不誠実で、いいかげんな男の見本のようだった。  別れたM大の彼の朴訥《ぼくとつ》さと不器用さが、今になって、なつかしく思い返された。  また忠夫は、恋人のいる典子を、どれだけ自分のものにできるか、その誘惑のゲームを楽しんでいたような気がしてならなかった。  多分、彼は典子がM大の恋人と別れたと聞いたとき、その優越感に酔いしれたに違いない。忠夫には、もとより彼女と別れるつもりなどなかったのだろう。  執拗《しつよう》にかかってきた忠夫の電話は、やがて、いつとはなしにこなくなっていった。  一年近くがすぎた。  そのあいだ典子は、忠夫がいきそうな所、鉢《はち》あわせしそうな店や場所は、ことごとく避けてきた。  もはや苦々しい出来事でしかなかった。  土曜日の街中の雑踏を歩いていた夕方、いきなり肩をたたかれた。 「ノリ、ひさしぶり」  色黒の丸顔が屈託なく白い歯を見せて笑いかけていた。 「ずっとこういうチャンスを待ってたんだ。ノリのことが気がかりでさ。おれ、一日としてノリのこと思い出さない日はなかったよ」  相変わらずぺらぺらとよくしゃべる男だった。こちらの思惑などまるで意に介さず、自分のペースに巻きこんでゆこうとする。 「な、一年ぶりだもの、ほんの少し、おれにつきあってくれよ。折り入って話もあるし。な、そこの居酒屋でビールでも。頼むよ、とにかくおれの話を聞いてくれ」  つかのま典子の好奇心がうごめいた。  折り入っての話の内容にも心がそそられたし、別れてから一年にもなるというのに、まるで気まずさをいだかせない忠夫の陽気なふるまいが、典子からしてみれば奇異な印象を受けた。  それにしても、彼のこの明るさは、いったい何なのだろう。  背中を押されるようにして、居酒屋ののれんをくぐる。  運ばれてきたビールのジョッキを片手で握りしめ、忠夫はそこでしんみりとした口調になった。 「ノリと別れてから、彼女にノリのことがばれてしまって、おれ、ふられちゃったよ」  おそらく彼女も両てんびんをかけていた忠夫の言動に不審感を持ちはじめていたのだろう。  いわゆる「女の勘」で、彼のごまかしを見破ったに違いない。 「ノリ、おれたちやり直せると思うんだ。ふたりを失ってから、しみじみわかったよ。おれはノリが必要だったんだ。彼女よりノリのほうが、ずっと好きだった」  典子はもうその手には乗らなかった。  からかうように言った。 「あら、以前は彼女のほうが大切だったんじゃなかったの」 「失ってみて、はじめて自分の気持ちに気づくってこと、あるだろう」 「ずいぶん弱気ね。また新しい女性を引っかければいいでしょ。そのお得意の話術で」 「おれ、そんなに器用な男じゃない」  だが典子には忠夫がやり方を変えただけのように思えた。  一緒にいて退屈しない男から、女の同情に訴えかけてくるタイプの男に。そして、その武器は、やはり「しゃべり」だった。 「なあ、ノリ、やり直そう」  忠夫が典子の片腕をきつくつかみ取った。その馴《な》れなれしい仕草に、典子はかっとした。  とっさに忠夫の顔にジョッキの中身を浴びせかけていた。 「この野郎、何するんだ」  立ちあがった忠夫の怒りの形相を目にするなり、典子は店をとびだした。 「待てよ、ノリ、待て」  忠夫が追いかけてくる。典子は必死に走る。  しかし、じきに忠夫は追いつき、思いっきりの力をだして、典子の腕をとらえた。 「こっちへこい。人前で恥をかかせやがって。甘い顔してたら、いい気になりやがって」  忠夫が引きずりこんだのは、近くのラブ・ホテルだった。典子がいくら抵抗しても、女の力と男のそれとでは比較にならない差があった。  つれこまれた個室には、真紅のカバーのかかったダブルベッドが中央に置かれ、野卑《やひ》で下品なそのけばけばしさは、まるで今の忠夫の、そして、これまで彼がやってきたことを象徴しているように見えた。 「こんなことまでして、あなたっていう人は」 「おれをこんなふうにさせたのは、そっちだろう」  ふたたびおそいかかってきた。  典子をベッドに押し倒した。  M大の彼と別れたあと、典子は忠夫と何回か体の関係を持ったけれど、今となっては、もはや嫌悪感しかおぼえない。  ぜったいに、二度と、嫌だった。  典子は全身であらがい、忠夫を拒否しつづけた。  ところかまわず爪《つめ》を立て、蹴《け》りつけ、なぐり、それをくり返した。  そのうち忠夫が小さな悲鳴をもらして、典子を押さえつけていた体をはなした。  右の頬にくっきりと二本の爪跡が走り、血がにじんでいる。 「ノリ、そんなにおれがイヤになったのか」  右の頬を手でかばうようにしながら、忠夫は言った。呼吸が激しく乱れていた。 「そうよ。女の体を征服すれば、それでヨリがもどるなんて、あなたもかなり単純な人ね。こんなの強姦《レイプ》と同じよ」 「強姦《レイプ》だなんて……おれはただやり直したいと」 「あなたは女の気持ちがまるでわかってないのよ。口先だけで女をたぶらかそうとしても、私はもうそのやりくちがわかっている。でも、ここまであなたがバカな男とは思わなかったわ。私の記憶のなかから消してしまいたい相手よ、あなたは」  忠夫はうなだれた。小さくつぶやいた。 「ごめん」  忠夫はそのまま部屋からでていき、典子は取り残された。  いそいでベッドからおり、衣服の乱れをととのえる。  パンティ・ストッキングが破れていた。脱いで、まるめてバッグにおさめる。  しわくちゃになった真紅のベッドカバーが、絹に似せた、けれど、まがいものの光沢を放っていた。  カバーをもと通りにする気持ちにはなれなかった。手をふれるのも不潔に思われた。  さっきはこのカバーが忠夫を象徴している薄汚なさに感じられたけれど、ひとりになってみると、自分の愚かしさのあらわれのようにも見えてきた。  M大の彼の姿が思い浮かんでくる。  物静かに、将来を語りあい、ひっそりとほほえみあっていた日々。  失ったものの大切さが痛感された。  二十一歳の典子は、いつのまにか涙を流していた。  涙の膜を通して、真紅のベッドカバーは、ようやくそのけばけばしい色合いを薄めはじめた。  老 成  カラオケで歌う客にあわせて手拍子を取りながら、和世《かずよ》のうちに活気がともった。  今夜も申しぶんのない本調子でやれそうだった。  浮きうきと心がはずむ。  血がわき立ってくる。  おもしろおかしいことばかり。  いつのまにか手拍子だけでなく、ヒールのかかとでもリズムをとっている。  スナック�ブーケ�に勤めてから一カ月、和世はもはやすっかりこの店の雰囲気に溶けこみ、存分に満喫していた。  正解だった。  夜のこのアルバイトをはじめてから、和世の毎日はこのうえなく充実してきた。  退屈さからも遠のいた。  どだい無理だったのだ。銀行の変わりばえのしないデスクワークに明けくれるだけの日々は、和世の本来の性分とは違いすぎる。  それでも高校を卒業し、入行してからの一年間はまじめに働いた。仕事をおぼえるのに精一杯、特に長時間デスクの前にすわっているのは苦痛そのもので、和世の場合は、まずその訓練を必要とした。同期入行の者より何倍もの時間がかかった。  けれど、いったん仕事に馴《な》れると、平凡なOL生活はじつに味気ない。  楽しみといっても、着飾ることと、男のつまみ食いぐらいしかなく、和世は午後五時からのひまを持てあました。  街をぶらついているそんなときに、�ブーケ�のやとわれマスターの所沢《ところざわ》に声をかけられた。七つ齢上《としうえ》の二十七歳だった。  誘われるままに遊び半分でこの店についてきて、そして翌日からアルバイトとして出勤した。  和世はたちまち人気者になった。  他に四人いる女性とくらべても、プロポーションのよい、華やかなお嬢さんタイプの和世はひときわ目立ったし、深く考えるのは苦手、とあっけらかんと言い放つ性格の軽さは、男たちをおもしろがらせた。  さらに、男のより好みをしない、おおらかな面も受けがよかった。  日中の職場では「派手なだけで仕事ののろい女」と評される和世は、しかし、酒場では「貴重な人材」であり、期待を裏切らない力を発揮した。  しかし、和世自身は取り立てて努力しているわけではない。 �ブーケ�に勤めて一カ月もすると、和世はマスター・所沢の秘蔵っ子になっていた。  高校時代の和世の生活の中心をなしていたのは、喫茶店のアルバイトと男遊びだった。  共働きをしている両親は、当時からまったくの放任主義に徹していた。  四つ齢上の大学生の大介《だいすけ》と交際はしていたものの、気分がのれば彼以外の男ともベッドをともにした。  罪悪感はなかった。  二十年にも満たない和世のそれまでの人生のなかで、もっとも力をそそいだのが、「男とねること」であり、唯一の楽しみともいえた。  喫茶店でのアルバイトは、こづかい稼ぎであると同時に、男探しにはいちばん手近な場所でもあった。  事実、和世めあてに喫茶店に通いつめてくる男も少なくはなく、セックスの衝動に駆られ、しかも大介と会えないときなどは、そうした男たちに気軽に声をかけたりもした。  たいがい一回限りのベッドの相手だったが、なかにはあとを引く男もいた。あとを引くかどうかの選択権は和世が握り、一回で終りにならない相手は、きまってベッドでのすぐれ者であり、そのわざを味わいつくして飽きるまで、和世はその男に没頭した。  愛情などいだいたこともない。  目的はひとつ、快楽だった。  努力、集中、一生懸命といった言葉は、すべてベッドの中にだけ持ちこまれ、そこで残らず燃焼してしまう。  部活動はいっさいやらなかった。  授業中もたいがい居眠り半分の状態で受け、そのために成績はつねに下ランクだったけれど、和世はクラスの誰よりも平然としていた。  やりたいことしかやらない、この点では和世は貪欲《どんよく》だった。徹底してもいた。  一日の授業が終了し、バイトをしている喫茶店の入ったデパートのトイレで化粧をするとき、和世はどんな場合よりも、いちばん美しかった。  制服の中に閉じこめていた自分の欲望を全開にし、より深く、より鋭いセックスとめぐりあうことだけを願っているその瞳は、野性的な輝きをおび、いっそう男たちを魅了してゆく。  それでいて清潔感あふれる色白な肌は、パールグレーのアイシャドウとピンクの口紅をつけただけで、見違えるほどに華やかになる。  みだらさと清純さが、あやういバランスを保って、男たちを惹《ひ》きつけずにはおかない美しさをかもしだす。  三年間の高校生活は、高校生という名称にかくれて、和世がめいっぱい遊んだ時期だった。  そんな和世が銀行に就職できたのは親のコネもあったけれど、幸運のひと言につきた。  そして面接にあたった銀行側の人々の目をごまかせるぐらいに、和世の奔放な生活は、その外見をそこねるまでにはいたらなかったのだろう。  もしかすると、それは和世がいくらセックスに熱中しても、男に執着しなかったからかもしれない。  ベッドの上でどれだけ肉体を酷使し、消耗させても、和世の心は思いっきり自由だった。とらわれるものが、ひとつもなかった。  大介に対しても、キープしておく「男の体」という感覚が、どこかで働いていた。 「カズちゃんて、ホントにすごいと思うんだよね。おれ、いつも感心しているもの」  並んですわったカウンターの上に片腕をのせ、所沢は朴訥《ぼくとつ》な口調で言った。 「ブーケ」でバイトをはじめてから三カ月がたった土曜日の夜中二時すぎ、和世は所沢に誘われて、彼の行きつけのバーにいた。  珍しく閉店時間の一時に店のシャッターをおろすことができたのだ。夕方からふりはじめた雨のせいか、それでなくとも客の入りの少ない土曜日のきょうの営業は、早い時刻に数名の常連客がきただけで終ってしまった。  所沢の称讃はつづいた。 「天性の才能なのかもしれないね。人あしらいが上手で、それでいて、ちっともくせがなくて、明るくて。おれはカズちゃんを見ならわなくちゃいけないと、つねづね反省に反省をかさねているよ」 「マスターのようなベテランがそんな。それにマスターをごひいきにしているお客さまもいらっしゃいますし」 「カズちゃんとおれとでは、格が違うよ。おれはかなわない、そう思っている」  所沢とふたりきりで話すのは、はじめて街中で声をかけられたときをふくめると、これで四回目である。  いつの場合も彼は生まじめで、誠意あふれるそのしゃべり方は、こちらの気持ちをほっとさせる安堵感《あんどかん》がある。 �ブーケ�にスカウトされる前は、女性相手のクラブのホストをしていたと聞く。噂《うわさ》では、かなりの人気者だったらしい。  しかし、一見したところ、彼ぐらいホストのイメージから遠い男もいないだろう。  小柄で、やせていて、とてもハンサムとはいえない顔立ちだった。まるい小さな目と、大きくて、やや長めの鼻、ドナルドダックをつい連想してしまう、妙にコミカルな輪郭を持つ口、青白い肌。  また長年、夜の世界で働いているというのに、所沢にはアカ抜けたところが全然なかった。田舎《いなか》出身なのを全身で物語っているようにイナカっぽい。それをかくそうともしない。  だが、そうしたイナカっぽさは、彼と話して数分もすると、まるで気にならなくなり、むしろ風采のあがらないその容姿が、身近で親しみを感じるものに変わってくる。  そして、とことんまで話につきあおうとする彼の根気とやさしさ、こちらの目をしっかりととらえてチラリとも揺れないまなざしは、そのイナカっぽい外見にふさわしい人情味をかもしだす。  ウィスキーの水割りのグラスを手に、所沢はくり返し、和世をほめたたえ、店での仕事ぶりに礼を述べた。  それが口先だけではない、いかにも真心のこもった言葉のため、和世の耳にも心地よくひびく。  それは、これまで経験したことのない快感だった。  肉体で得る快感はもう十分に知りつくした和世にとっては、新鮮な、またとらえどころのない、底知れぬ快楽を秘めていた。  所沢としゃべっていると、和世はいつのまにか時間を忘れてしまう。  男をセックスの対象としてしか見なしていなかった和世にとっては、意外な自分の発見でもあった。  手も握らずに、こうして楽しくすごせるとは、これまで想像もつかなかった男との新しいつきあい方、しかも、それだけで満足している自分がいた。  所沢がひとりごとめかして言った。 「でも、あの日、勇気をだしてカズちゃんに声をかけてみて、本当によかった。おれ、こういうイナカっぽい男だから、自信がなかったんだ。それに引きかえ、カズちゃんは歩いているだけで光っていたものね」 「私は退屈していたわ」 「そうかな。そんなふうには見えなかったよ。たくさんボーイフレンドがいそうな、おれみたいなのは、まるで目じゃない、そんなタイプに思った」 「マスター、男はみかけじゃないですよ」 「やさしいなあ、カズちゃんは」  しみじみとした所沢の口調が、ふいに胸にしみた。そんな自分にどぎまぎした。 「私、やさしくなんかないですよ」  実際、和世はやさしい、などと言った男は、少なくとも高校時代の三年間はひとりもいなかった。大介にしても、である。彼との関係はまだつづいていた。 「いや、おれにはわかるよ。カズちゃんはまだはたちだろう? これからカズちゃんの性格のよさはどんどんでてくると思う。ほら、若いから、まだストレートに自分を表現しきれないってとこあるじゃない?」  そうなのだろうか。  やりたいことしかやらない、これで押し通してきたのに、この先、変化があるとは考えられなかった。 「おれからすると、カズちゃんは、まだ少女なんだよ。大人の女性になるのはこれから。先が楽しみだね」  そして彼はまるで和世の心中を見透かしているかのように付けたした。 「ほら、誰とでもすぐに寝る女っているだろう? ああいうのは、まだガキなんだよね。大人の女性は自分を安売りしない。男ともじっくりつきあって、いい関係をつくってゆく」  一瞬、打ちのめされた。  所沢は和世の過去を熟知したうえで、それとなくさとしているのだろうか。  恥ずかしさが全身をかけめぐり、そういう自分の反応にも和世はとまどった。これまでは、ほとんど恥の感覚はなく、どう思われようと、何を言われようと、平気で無視できた。  私は私、だったのだ。  それなのに、所沢の前では、その強気がわいてこない。  ふっつりと無口になった和世の肩に手をかけ、所沢が顔をのぞきこむ。 「どうしたの? 気分、悪いの?」 「いいえ」 「心配ごとがあるのなら、遠慮なく言って。おれのできる範囲なら、いくらでも手助けするから」  思いきって、たずねてみた。所沢がどこまで自分のかつてを知っているのか。 「マスター、誰かが私の悪口でも言っているのかしら」 「そんなやつ、いるはずがないよ。もしいたとしたら、おれが許さない」  安心した。  彼は和世について語ったのではなく、世間一般の話をしただけらしい。  緊張のほぐれた和世の耳に、なま温かい息が吹きかかった。 「気分がよくないのなら、おれのマンションで少し休んでいったらいい。この近くなんだ、歩いてゆける距離」  心の伴ったセックスの素晴しさを和世は所沢によって、はじめて知らされた。  翌週の日曜日、和世は大介を呼びだした。彼は大学を卒業し、すでにサラリーマンになっていた。  ふたりはごく当然のようにホテルに行った。  数年来のつきあいで、和世の体のすみずみまで知りつくしているはずの大介であり、どの男よりも深い快楽を与えてくれるはずの彼だった。  けれど、結果はつまらなかった。  所沢とのそれにくらべると、深さに欠けていた。「心」という深さに。  ホテルを出る頃には、和世は大介と会ったことを後悔しはじめていた。  彼とは早く手を切ろう。きれいに別れてしまおう。  その一方で、和世の心と体は、まっしぐらに所沢を求めていた。  もはや彼しかいなかった。  麻薬中毒者のように、和世は所沢の存在にのめりこみだしていた。  一年がすぎた。  体力には自信のあった和世も、さすがに体がもたなくなってきた。  昼と夜の勤めのかけ持ちだけで、これまでも精一杯だったのが、デスクワークの仕事量がぐんとふえ、日曜出勤しなくてはならない週も多くなった。  所沢と同棲《どうせい》してから半年以上がたっていた。  くたびれはてた表情の和世を見かねて、ついに所沢は言った。 「銀行、辞めたら?」 「でも」  彼はまだ�ブーケ�のやとわれマスターであり、和世もその下で働いている。  夢は、彼に自分の店を持たせることだった。  そのためにも頑張って、貯金を少しでも多くしたい。 「カズちゃんの気持ちはうれしいよ。でも、まずは健康第一じゃないか。体をこわしたら、すべてが台なしになる」  相変わらず彼はやさしく、誠実だった。だからこそ、和世もそれに応えて、できるだけのことをしてあげたい。  和世はほほえみ返した。 「銀行を辞めたら、昼間の時間つぶしをどうしたらいいのか困ってしまうわ」  彼は真剣なまなざしになった。 「おれと結婚しよう、カズちゃん。大丈夫だ。ふたりで力をあわせれば、店の売上げもきっと何倍にも伸ばせる」  二年がすぎ、和世は二十二歳になった。  その年の夏、所沢の浮気が発覚した。  以前に�ブーケ�で働いていた女性で、和世もよく知っている相手なだけに、和世は荒れ狂った。  所沢はしらを切りとおした。 「誤解だよ。おれが愛しているのはカズちゃんだけなのは、わかっているじゃないか」  そう言いながらも、無断外泊の日がつづいた。  冬になる頃、所沢は女と別れた。  けれど、二カ月後には、また新しい相手をこしらえた。  和世は�ブーケ�から別のスナックに移った。  四六時中、顔をつきあわせているのが息苦しくなって、所沢は浮気に走るのかもしれないと考えた。  だが、彼の素行はあらたまらなかった。  三年がたった。 �ブーケ�の経営が思わしくなくなってきた。  借金がかさんでゆくのに比例して、所沢が酔って悪態をつく夜がましてゆく。  和世の稼ぎぐらいでは埋めようのない金額だった。  そんなある晩、やはり泥酔した彼がわめきちらした。 「カズ、おれのためにソープで働け。夫婦だろ? 亭主がこれだけ困っているのに、お前はただ黙って眺めているだけか。薄情者。おれは知ってんだぞ。お前の体は相当に遊んできたものだろうが。はじめて、お前を抱いたときから、おれはそれに気づいていた。でも、気づかぬふりをした。どうしてか、わかるか」  そこまで一気に言ってから、彼は床にぺたりとすわりこんだ。両手できつく膝《ひざ》をつかみ、うなだれた。 「おれはさ、本気でカズに惚《ほ》れてたんだ。だから何もきかなかった」  ポトポトと音を立てて、床に涙がこぼれた。 「そういうお前なら、ソープぐらい、どうってことないだろう。おれのこと思ってくれてるのなら、そのぐらいしたっていいじゃないか」  しばらくして声が跡絶えた。  所沢は床の上に大の字になって寝息を立てていた。  彼にどんな言葉をたたきつけられても、和世は、もはや怒る気にはなれなかった。  別れるつもりも、まるでない。  隣室に置かれたダブルベッドは、和世がはじめてこの彼の部屋にきたときと同じものだった。  心を伴うセックスを経験した日から、和世はどんなことがあっても、所沢とははなれない、はなれたくないと決意した。  そして嫉妬《しつと》のあまり、和世が何回となくカミソリを手首に入れようとしたのもこのベッドの上だった。  が、そのとき必ず胸をよぎる。「私は彼のために一生を棒にふるのか、ふろうとしているのか」  まだ負け犬にはなりたくなかった。せめてものプライドが残っていた。  彼にのめりこんでいた時期は、終りを迎えていた。  今は肉親に近い愛情だった。  肉体関係がなくても、愛情に変わりはなく、彼が冷静になって店や借金の相談を持ちかけてきたなら、協力は惜しまないつもりでいた。  勤めているスナックを辞めてもかまわなかった。それが少しでも彼の役に立つことなら。  和世、二十五歳。  二回の中絶をし、現在も子供はいない。  彼女が華やかなお嬢さんタイプだったと記憶している人は、今の彼女と路上ですれ違っても、別人として見すごしてしまうだろう。  かつての面影は、どこにも残ってはいない。  実際の年齢より、かなり老けて見える、ありふれたひとりの主婦。  生活に疲れ、所沢にも疲れながら、生き抜いてゆくことだけを考えている。  優等生  ホテルのスイート・ルームを借りきってのパーティだった。  もちろん、宿泊でおさえてある。  集まる仲間は、男性六名に女性二名、いずれも、かつて同じ支店で働いていたメンバーだった。そのなかには支店長もふくまれている。  挙式を一週間後にひかえた土曜日の夜、留美子《るみこ》は張りきってホテルにむかった。  おそらく、ひと晩中、飲みあかすことになるに違いない。  特にパーティの主役である留美子は、あらかじめ徹夜を覚悟していた。  自分の結婚を祝って、以前の職場の上司や同僚が勢ぞろいしてくれるのだから、せっかくの好意を台なしにはしたくなかった。  とことんまでつきあうのが礼儀というものだろう。  このパーティの連絡を受けた十日ほど前から、留美子はひたすら心待ちにしていた。  あの支店が閉鎖されたのは一年半前、それ以来、仲間八名が全員顔をそろえるのは、今夜がはじめてだった。  留美子はうれしかった。  感謝もしていた。  別の支店へ、あるいは本社へと、ちりぢりになった仲間が、自分のためにふたたび集まってくれる。それも、ひとり残らずである。  短大を出てから三年半、一緒に仕事に励んだ仲間だった。  本社から支店閉鎖の命が伝えられた日、皆はとっさに支店長を取り囲んでいた。  あのとき、だれもが自分の耳を疑った。聞きまちがいではないのか、と。 「すまない」  三十歳になったばかりの支店長は、そう言って頭をさげ、唇を噛みしめた。  非は彼にあるのではなかった。  むしろ彼の陣頭指揮によって業績が伸び、商圏が拡大され、それまで小規模だった支店が、中型支店に吸収されるという、よろこばしい結果の閉鎖だったのである。  だが、中型支店への吸収は、八名の仲間の人事異動にもつながる。  結束の固い支店だった。  支店長を頂点にして、いわば家族《フアミリー》のようなきずなで結ばれていた。 「すまない」という支店長の言葉は、その家族がばらばらに解散することへの心情的な哀《かな》しみのあらわれだった。理屈ではなく、そういう雰囲気のなかで、助けあい、励ましあってきた。  留美子にしても、じつの家族の次に、いや、もしかすると家族と同等なくらい大切な仲間だった。  八名の信頼関係の強さを誇りに思ってもいた。  その証拠に、一年半たっても、だれかが声をかければ、すぐにこうして全員が集まってくれる。  だれもが心から留美子の結婚を祝福し、わがことのように喜んでくれる。  結婚を目前にして、もういちど仲間の親密さを確認できるのは、このうえない幸せだった。  ホテルにむかいながら、留美子は、愛情あふれる仲間から送りだされ、やはり、愛情いっぱいの将来の夫へ手わたされてゆく自分を、しんそこから果報者だと、何かに礼を述べたい気持ちにとらわれた。  こんなにも恵まれていていいのだろうか、と一瞬のおびえを感じるぐらい、今の留美子は幸せそのものにつつまれていた。  スイート・ルームは支店長の名前で借りてあった。  フロントでルーム・ナンバーをきき、十五階までエレベーターでのぼってゆく。  ドアをノックする。鍵はかかっていない。  把手《とつて》を握って部屋に足を踏み入れるなり、にぎやかな歓声と、いくつものクラッカーのはじける音が、留美子を迎えた。 「結婚おめでとう」 「Congratulations!」 「この幸せ者め」  思いがけない、にぎやかさにとまどいながらも、またあらたな喜びが、留美子の胸の底からしみだしてきた。 「本当にありがとう、みなさん。私、とってもうれしいです」  言いながら涙ぐみそうになった。  そんな留美子に、同期入社の友子《ともこ》が黒いドレスの腕をからませてきた。 「よかったわね、おめでとう」  先輩の高島《たかしま》も微笑を浮かべて見つめている。彼は留美子より三つ上の二十八歳だった。すでに妻と子供がいる。  スイート・ルームは茶系統でまとめられた渋い色調の空間だったけれど、明るく淡いエメラルド・グリーンも華やかさの演出に使われていた。  ティー・テーブルの横の布張りの椅子、壁にかけられた油彩の抽象画のなかの大胆な線、そして、ドアでへだてられた隣の寝室の二台のベッドカバーなどがそうだった。  居間の中央にソファが並べられ、まんなかのテーブルには、ルームサービスでとったらしい料理の皿やグラスがすきまなく置かれている。  友子の話によると、留美子がやってくる一時間前に皆がこの部屋に集合し、準備をしていたのだという。 「さあ、まずはシャンパンで乾杯しよう。ただし、シャンパンは予算上、この一杯だけ」  テーブルのそばに立った支店長がそう言って乾杯の音頭をとった。 「留美ちゃんの幸せのために、乾杯」  それにつづいた乾杯の声は、はからずも乱れのない合唱になっていた。  かつての支店のチームワークぶりが、そんなところにも、いまだに見えかくれした。  乾杯のあと、留美子はスピーチを求められた。  いったんはソファに腰をおろした留美子は、かしこまって立ちあがる。 「こういう日を迎えられたのも、みなさんのおかげです」  留美子は心をこめて、そう切りだした。しんそこからそう思っていた。  ここに集まった仲間は、留美子の結婚相手の前田《まえだ》の存在を早くから知っていたし、それとなく助言や忠告をしてくれたりもした。  前田とは短大時代から六年の交際をあたためてのゴールインだった。  留美子のスピーチは、終始、かつての仲間との楽しい思い出と感謝の気持ちを述べるのについやされた。 「みなさんに支えられて」というのも偽りない感想だったし、「育ててもらった」というのもつねづね思っていることだった。  スピーチを終えてソファにもどった留美子の耳に、だれかが冷やかしまじりにつぶやくのが聞こえた。 「まったく、最後の最後までそつがないよなあ。見事だ」  支店長の声が、それを途中でさえぎった。 「留美ちゃん、今夜はずいぶん勇ましいスタイルをしているじゃないか。パーティの主役なんだから、もっとドレスアップしてくるとばかり思っていたよ」  言われてみると、男性陣はネクタイに背広姿で統一され、友子も黒いぴったりとしたセミ・ロング丈のドレスをおしゃれに着こなしている。  それにくらべて、留美子ははき古したジーンズに、グレーの丸襟のセーターをだぶりと組み合わせた、まったくのふだん着だった。  皆を失望させたらしいことに、つかのま留美子はうろたえた。 「あ、ごめんなさい。きょうはきっと飲みあかすだろうと思って、いくら汚れてもいい恰好《かつこう》で来たの。ほら、使ったグラスやお皿などの洗い物とかあるでしょ?」  またもや、だれかが言った。かすかに皮肉のひびきがこめられていた。 「まったく、よくできた人だよなあ。自分が主役なのに、わきに徹する、この奥ゆかしさ」  留美子はあわてて否定した。 「そんなつもりは。ただ、みんながせっかく私のために集まってパーティを開いてくれるのだから、少しはお手伝いしようと。甘えすぎると悪いもの」  身をすくめるようにして弁解じみた口調になった留美子を、横合いから友子が助けた。 「みんなもよくわかっているじゃないの、留美子の性格が。別にわざとラフな服装をしてきたわけじゃなくて、今の説明どおりの気持ちからなのよ、彼女は」  高島も同調した。おだやかに言った。 「そうだよなあ。留美ちゃんは裏表のない人だもんな」  その場の空気が奇妙なものになりそうなのを察知した支店長が、いきなり背広をぬぎ、ネクタイをゆるめた。 「みんな、派手にやろうじゃないか。なんせ、きょうは帰りの心配がないんだから、徹底して飲もう」  午前零時をすぎた。  居間のソファにすわり、テーブルを囲んでいるのは、留美子と友子、高島をまじえた三人の男たちだけになっていた。  あとの者たちは酔いつぶれたり、飲み疲れて、隣の寝室へ退散してしまった。  居残っている五人の気分は、アルコールのせいもあり、久しぶりに気心の知れた仲間と語りあえた充実感と解放感もあって、たいそう高揚していた。  たがいの近況も語りつくし、移った支店での愚痴や不平不満も吐きだし、快いうつろさと短い沈黙をわかちあっていた。  やがて男のひとりが沈黙を破った。  話はあらためて、今夜の主役である留美子にもどってゆく。 「しかしおれとしては意外だったな。おれさ、留美子は前田くんとは結婚しないと思ってたもの」  別の男もうなずいた。 「おれもそう。だって六年間もの�永すぎる春�だろう。しかも、前田くんはK市にいるんだから、この距離的なギャップって大きいよな。破綻《はたん》しても不思議はない関係だから」  留美子はあいまいにほほえんだ。 「そうかもしれないけど……」  しかし留美子に迷いはなかった。  六年間ひたすら前田を信じ、自分たちの愛情をはぐくんできた。  距離的なギャップといっても、JRの特急に乗れば片道二時間しか、かからない。  だから月に一、二回は必ず会っていたし、年に一回は長めの国内旅行、もしくは海外にでかけ、密度の濃い時間を共有してきた。声が聞きたければ、電話もある。  六年間それは変わらなかった。 「そういうとこまで、留美子は几帳面《きちようめん》なんだ」 「でもさ、前田くんが浮気をするかもしれないといった心配は持たなかったのか」 「全然。万が一そういうことがあったとしても、私は彼を信じていたから」 「つまり必ず自分のもとに帰ってくると」 「すげえ、自信」  高島がおっとりと口をはさんだ。 「自信というより信頼の強さだと思うな。前田くんもそれだけ信頼されていたなら、裏切る気持ちにはとてもなれない。男なら、たいがいそうだよ」  前田に対してだけでなく、留美子はかかわるすべてのことに誠実で、ひたむきだった。  入社した当初は、仕事を早くおぼえようと残業もいとわず、先輩にこまめにたずねまわる熱心さで、支店長を感心させた。  いったん身につけた仕事は確実で、めったにミスはない。  職場内の人々との協調性にもすぐれ、けっしてでしゃばらない円満で温厚な性格は、だれからも愛された。  取引先での受けもよかった。見合い話を持ちこまれたことさえある。  それでいて留美子の態度、言動には無理がなかった。  ひかえめな聞き役タイプでいながら、のびやかな自然体を保ちつづけていた。 「貞淑で、いいお嫁さんになるだろう」というイメージは、入社してまもなく定着していたのだった。  ウィスキーのオン・ザ・ロックを手にした、留美子より一期上の男が真顔《まがお》でたずねた。 「留美子、これでいいのか」 「いいのかって?」 「このまま会社を辞めて、K市に嫁にいっちゃっていいのかってこと」 「私が望んだことよ」  もうひとりの男が、その底にふくむものを秘めながら言った。はずしたネクタイをワイシャツの胸ポケットに乱暴につっこむ。 「本当にそうなのかなあ。おれの想像では、それが留美子の本心とは思えないんだけどなあ」  きき返したのは友子だった。 「はっきり言ったら。そんな持ってまわった言い方をしないで」 「じゃあ言うけどな、留美子は自分に嘘《うそ》をついている、こうおれは思うわけ」 「嘘?」留美子は面食らった。 「ああ。確かに彼女は優秀だ、優等生だよ。仕事はきちんとこなす、人あたりもいい。彼氏とのこともオープンにして、さらにその純愛もつらぬいて結婚する。何ひとつ欠点はないさ。だがおれたちから見ると、留美子は自分の心に忠実じゃない」  オン・ザ・ロックの男も加勢した。 「うん、優秀な女を演じている、そんな気がするよ。そうじゃないのか、留美子? 自分に正直になれよ。いい子ぶっていても、おれたちの目は節穴《ふしあな》じゃないんだ」 「そう、思いきって白状しろよ。おれたちにだけは本当のことを打ち明けてもいいだろ」  留美子は困惑していた。  かれらは、あきらかにからんでいる。  しかしその理由がわからない。  口ごもっていると、ふたりの男はますます言いつのってきた。責めはじめた。 「洗いざらいしゃべって、すっきりしたらどうなんだ。そうしたらおれは留美子を認めるよ。このままじゃ許せない」 「ああ、このままじゃ優等生どころか、大嘘つきの、とんでもない、したたかな女さ」  またもや友子が割りこんできた。 「何を根拠に彼女をそんなふうに責めるのよ。言いがかりをつけるのは、よしなさいよ」 「言いがかりじゃない」 「そう、おれたちは真実を言ってるまで」  留美子は問い返した。  どうして自分がこんな目にあうのか、まったく理解できなかった。 「その真実って、何なの」  男たちは顔を見あわせた。  数秒後、ネクタイをはずした男が、留美子に挑むようなきつい視線を当ててきた。 「おれたちみんな気づいているんだ。留美子は前田くんとは単につきあいが長いという腐れ縁で結婚するだけ。本当は高島さんに惚《ほ》れている。そうじゃないのか」  瞬間、留美子の胸は痛みをおぼえた。肋骨《ろつこつ》が激しくきしんだ。 「そんな突拍子もないことを、どうして……」  おしまいまで言葉がつづかなかった。  オン・ザ・ロックの男の目が、底意地の悪い光をにぶく放っている。 「突拍子もない話か、どうか。それは留美子の態度がすべて物語っていた、とだけ言っておくよ」  もうひとりの男が、そのあとを引き受けた。 「優等生のカラは、なかなか自分からは破れないからな。だから、まわりの期待どおりに長年来つきあってきた相手とゴールインする。優等生に不倫は似合わない。だけど、留美子、本当に惚れている男のそばにいるのが、いちばんの幸せじゃないのか。前田くんだって気の毒だとは思わないか」  怒りを抑《おさ》えて、できるだけ平静に答えた。 「勝手な想像はしないで。高島さんだって困っているじゃないの」  高島はよき相談相手だった。  前田とのデートの報告から、仕事上の悩みまで、何でも話していた。  三つしか違わない気やすさと、既婚者がかもしだす安定感が、留美子の心をくつろがせた。  高島は留美子が入社してまもなく社内結婚をし、現在は娘がいた。  留美子からすると、彼は恋愛の対象として考えられる相手ではなかった。  いや、考えてはならない。  しかし、男たちに面とむかって指摘され、留美子は動揺していた。  できれば気づかずにいたかった感情が、心の奥で、あざやかに息づきはじめた。  だが、それはかくさなくてはならなかった。  彼には妻子がいて、自分には前田がいる。  そのバランスを踏みはずすことは、留美子の生き方からすると、けっして許されなかった。  不必要に他人を傷つけたくはない、ずっとそう思いつづけてきた。  たとえ、それが厭味《いやみ》な優等生の発想であろうとも、留美子の身に深くきざまれた智恵《ちえ》だった。  それなのに、ここにきて、男たちは本心をあばき立てようとする。  強く激しく追及してくる。  すべてを暴露し、そして、いったい何になるというのだろう。  何事につけても、円満にそつなくこなしてきた者に対する、やっかみなのか。  女だからこそ、かれらはいっそう腹立たしいのか。  あるいは、幸せが約束されている者への、漠然とした嫉妬《しつと》なのか。  そうは思っても留美子はショックだった。  いかにもこちらのことを思うふうを装いながら、予想もしない悪意をまきちらされた心地がした。  素直になれ、正直になれ、嘘をつくなと言いながら、結局は、留美子のバケの皮をはがしたい一念、その衝動にかられての言葉のかずかずとしか思えない。  だが、留美子はそれを口にはしなかった。  言ったとしても、返事を予測できた。  誤解だ、とかれらは心外な表情をするだろう。  仲間と思うからこそ忠告した、と言い張るに違いない。  事実、そうやって自分たちに暗示をかけなくては、善意からだと信じこまなくては、とても言えない内容のはずだった。  留美子はかれらのペースに巻きこまれまいと気を取り直した。  つとめて余裕ある対応を心がけた。 「みんな私のことを心配してくれているのね。でも、高島さんは私のよき兄貴分であり、愛する男性と私は結婚するの。へんな勘違いはしないで」  ネクタイの男が生《き》のままのウィスキーを飲みながら、またもや、しつこく追及した。 「そこまで自分をダマすのかなあ。いいかげん白状したほうがらくじゃないか。きょう集まった仲間は全員そう思っているのに。な、友子だってそうだろう?」  一瞬、友子はひるんだ顔つきになった。  が、返ってきた言葉は落ち着きはらっていた。 「留美子が違うと断言したのだから、きっとそのとおりなのよ。それ以上あれこれ詮索《せんさく》するのは失礼じゃない」 「おれたちは留美子のために言っているんだぜ。悔いのない人生を送ってほしいから」  けれど、悔いは、すでに留美子の胸に生じていた。  仲間だと信じきっていたこと。  だれもが自分の結婚を祝福してくれるものと決めつけていたこと。  こういう展開になるとは思いもせずに、このパーティに喜びいさんでやってきたこと。  そして、他人に対する見方が甘かったこと。  オン・ザ・ロックの男があくびをし、眠そうな声でつぶやいた。 「疲れたよ。どうもおれたちの心が留美子には伝わらなかったみたいだな。自分に正直になるチャンスを与えてやったのに」  カーテンのすきまから明け方の光が細く、するどく入りこんでいた。  居間には留美子と高島だけが残り、こうして夜が明けてしまった。  会話はとだえていた。  ふたりとも床のカーペットをぼんやり見つめつづけていた。 「朝だな」  ほっとした声だった。 「ええ、朝になってしまったわ」  細く開いた隣室のドアのむこうに、ベッドの角が見えた。だれかが軽いいびきをかいている。  高島は短く黙りこみ、それから明るい調子で言った。 「おれは留美ちゃんのこと、好きだったのかもしれないな。うん、好きだったんだ。多分、いや、きっと、好きなんだ」  思いやりを、留美子は感じた。  ふたりの男から受けた攻撃を、高島は、そうすることで中和させようとしてくれていた。  悪意とは正反対の「好き」のひと言をくり返すことで、留美子の胸にたまった毒を薄めようと、彼なりに心をくだいてくれている。 「ありがとう、高島さん。私も多分あなたを好きだったんだと思うわ」  その言葉を彼はまっすぐに受けとめ、そして、やわらかく、笑い返してきた。  一週間後、留美子は予定を変えることなく前田と結婚した。  病 棟  入院生活は退屈である一方では、やかましさとわずらわしさがつきまとった。  その日も、直子《なおこ》が昼食の配膳盆《はいぜんぼん》を、廊下の配給車にもどして病室にもどってくると、この六人部屋のぬしともいうべき野口さんが、ベッドの上にすわり、病人とは思えない大声を張りあげてきいてきた。手にはリンゴと果物ナイフが握られている。 「ね、岩井《いわい》さん、本当のところ病名はなんなの」  色黒で小太りな野口さんは四十代も半ばの主婦で、地方の町から、この大学病院にまわされてきていた。これまでに手術は数回というつわものだった。  面とむかって質問されても、直子は返答のしようがない。  ガウンの紐《ひも》をなんということもなく結び直しながら、あいまいに答える。 「先生もよくわからないらしいんです。検査をして、その結果を見てからでないと」  野口さんの目に疑い深い光が走った。直子がごまかしていると思ったのだろう。  野口さんのベッドは通路をはさんだむかい側の窓ぎわ、直子のそれはドア側だった。 「よくわからないって言っても、岩井さんは、個人病院からここに運ばれてきて一週間も絶対安静だったじゃないの」 「ええ」 「しかも救急車できたわけでしょ。相当な重症だとふつうは思うわよ。ねえ」  野口さんは隣のベッドの年配の女性にあいづちを求めた。 「救急車といっても」  直子は口ごもる。正直に返答しても信用されないかもしれなかった。  が、ここで黙りこんでしまったなら、同室のひとびとにいっそう誤解され、心ない噂《うわさ》を立てられてしまうに違いない。 「万が一の場合を考えて、救急車を使うように病院の先生が判断しただけなんです」 「でも救急車よ。ただごとじゃないわね」  それから野口さんは重大事を発表するみたいに、いちだんと声を高め、他の四人の患者の注目を集めた。 「この婦人科の病棟では二十五歳の岩井さんが、いちばん若いの。私、きのう調べてきたんだから」  直子の横のベッドの上品な女性が同情のまなざしをむけてきた。直子の母ぐらいの年齢だった。 「そう。岩井さんもいろいろと大変ね。何しろ、この病棟は別名、癌《がん》病棟とも呼ばれていることだし……でも岩井さんの場合は癌ではないのでしょ?」 「だからなの」  さらに野口さんは得意気な表情になった。 「だから、その若さで、どうしてこの病棟にきたのか、不思議なのよね、私」  これまで問われるたびにくり返してきた言葉を、直子はふたたび口にした。 「本当に原因不明の病気らしくて、それで大学病院に移されたんです」 「何か心当たりはないの」 「別に」  野口さんの顔に好奇心と底意地の悪そうな薄笑いが浮かんだ。だれにともなく言う。 「ほら、中絶の後遺症とか、結構あるらしいのね。それとか、若いうちから、さんざん男の人と遊んだりすると、体にも影響したりするんじゃない? だからね、うちの娘たちにはいつも言っているの。好き勝手をしていると、あとでそのツケがまわってくるからって」  何という性格のひとなのだろうか。直子は野口さんの無神経きわまりない台詞《せりふ》にあきれはて、ひそかに傷ついたが、言い返しはしなかった。  こういうタイプの人間は職場にもいる。  直子が、同期入社の総務課の女性に頼んで提出してもらった入院届の「婦人科」の箇所を見て、あれこれ憶測し、あることないことを社内中にふれまわっているに違いない女性は、すぐに二、三名は思いつく。  野口さんは、ひと一倍おしゃべりで、それでいて話の内容はつねに決まりきっていた。  病棟の患者の噂と、夫とふたりの娘の自慢話を飽きることなく語る。他人が耳を傾けていなくても、口を動かしつづける。  病人とは思えないありあまった元気さは、ほかの面にも見られた。三食のどんぶり飯はきれいにたいらげるし、九時の消灯時間になると、まっ先にいびきをかいて寝るのも彼女である。  直子はそのいびきに悩ませられていた。  また鶏肉《とりにく》をひんぱんに使う入院食の油ぎったおかずは、直子にとっては食が進むどころか減退する。どんぶり飯には毎回ほとんど箸《はし》をつけなかった。  すると、直子のその食の細さを、またしても野口さんは、不健康だ、と決めつける。  二十代の直子の若さが、彼女には何かにつけて目ざわりなのかもしれなかった。  午後三時からの面会時間がきて、病室はいくらか活気づいた。  野口さんのところにも親類のひとが見舞いにあらわれたし、直子の隣りのベッドにも訪問客がやってきた。  直子は病室を抜けだした。  見舞い客のあてはなく、もし、くるとしても夜にかぎられている。  田舎《いなか》の両親には知らせていなかった。余計な心配はかけたくないのと、原因不明という診断は、親たちをいたずらに混乱させる。ある程度、病名がはっきりしてからでも遅くはないだろう。  また直子がこんな鷹揚《おうよう》な気持ちでいられるのは、病気の自覚症状がまったくないからでもあった。気分的には、健康体と変わりがない。  痛みもだるさもなく、血圧、脈搏《みやくはく》、すべて正常なのには、担当医も首をかしげていた。  かれこれ三週間前になる。  その夜、直子はマンションの自分の部屋で、恋人の有治《ゆうじ》とベッドのなかにいた。  いつもどおりの手順でむつみあい、いつもどおりに抱きあった。  やがて、しばらくして有治が体をはなした。直子はベッドから降りて、バスルームに行こうとしたとたん、脚のあいだから、一挙におびただしい血が流れた。  一瞬ふたりは呆然《ぼうぜん》となって顔を見あわせ、それから有治がバスルームに走って行き、バスタオルを持ってきた。  バスタオルは、たちまちに鮮血で染まった。有治がもう一枚、バスタオルを取ってきた。それも短時間で使いものにならなくなった。  三枚目を押し当て、ようやく出血はとまった。  水道の蛇口から勢いよく水がほとばしるに似た出血の仕方に、ふたりは怯《おび》えきっていた。 「直子、大丈夫か」  ようやく有治が口をきった。驚きと恐怖に声がかすれ、顔は強張《こわば》っている。 「おかしいの。こんなに出血したのに、痛みもない」  翌日、直子は午前中だけ会社を休み、マンションの近くの婦人科を訪ねた。  いびつな形の診察台にあがり、医師が器具を使って内視しようとしたとき、再度、出血がはじまった。そのひどさには医師までうろたえ、声もうわずっていた。その場で即刻に入院を命じられ、絶対安静のうえに輸血までされた。  それでも自覚症状はなかった。  数日おいて医師が内視を試みたとき、またもや出血に見まわれ、さすがの医師もおじけづいた様子で途中で診察を打ち切ることにした。  入院して一週間がすぎ、医師は直子のベッドにやってきて言った。 「残念ながら、どうも私の手には負えません。大学病院にいる友人に、あなたの症状を話したら、これまで前例がないから、ぜひ診せてもらいたいと」  そして、この病棟にやってきたのである。救急車を使うべきだ、と、出血を恐れた医師は腫《は》れ物を扱うように強調した。  きのう、直子は新しい担当医から説明を受けた。 「おそらく子宮に傷がある。その傷に異物がふれると傷口が開いて出血する。しばらくすると傷口がふさがり出血もとまる。このくり返しでしょう。その傷がどうしてできたのか、ここが不明、原因不明ということです」  病室をあとにした直子は、いくつもの廊下を横切り、階段を降りて売店をのぞいてみた。最近の日課として唯一の楽しみになっていた。  わりと充実した品揃《しなぞろ》えの店だった。入院患者の食事への不満やわがままに応えるようにミニパックの惣菜類《そうざいるい》もケースに並び、果物《くだもの》コーナーも盛りだくさんの彩りで目をうるおす。  直子は果物コーナーの棚から、直径十センチほどの、まんまるいリンゴを取りあげた。きのうは入荷していなかったそれは、形のよさと色つやの美しさでは、他を圧している。まるで作り物のようだった。値段も張る。  思いきって直子は買うことにした。食べるつもりはなく、ベッドわきのテーブルに置いて眺めていたい、ついそう思わせるようなリンゴだった。  リンゴを一個だけ入れた紙袋を手に、直子は、すでにひと気のなくなった外来患者の待ちあいコーナーに行ってみる。  がらんとした空間のベンチに腰かけ、息苦しい病室では味わえない解放感にひたる。  三十分もそうしていると、解放感は次第に心細さにすり替っていった。  原因不明の傷とは、一体、何なのか。  本当は癌ではないのか。  子宮を取ることになるのだろうか。  だが直子は不安をだれにも語らなかった。  絶対安静の状態にいた約二週間、直子は置き去りにされたなかで、孤独感のなかで、自分の無力さを痛感した。  あがくことのむなしさ、泣きわめくことの愚かしさ、他人にすがろうとする虫のよさ。  二週間のあいだに有治が見舞いにきたのは一回、大学病院に移ってからである。それも十分ほどで、そそくさと帰ってしまった。  帰りぎわにささやいた。 「婦人科って苦手だよな、男にとっては。病室にいるのは女ばかりなんだもの」  確かに男性にとってはなんとなくきまりの悪い場所だろう。  けれど今の直子には、彼だけが頼りだった。それは有治もわかっている。わかりながら、苦手、のひと言を理由にあらわれないのは、あまりにも思いやりに欠けるのではないか。  有治の身勝手さを見せつけられたのは、昨夜だった。二回目の訪問である。  彼はやってくるなり、直子を病室からつれだした。野口さんたちの露骨なまなざしを考えれば当然だろう、と直子も素直にしたがった。  有治は面会室の前を通りすぎ、ナース・ステーションもあとにし、どんどん廊下を歩いてゆく。人のない、暗いほうへと進みつづける。  ようやく彼は立ちどまった。外科病棟の、べンチが一台だけ置かれている廊下のすみだった。 「ちょっとすわろう」  並んで腰かけた直子の片手を有治は握りしめてきた。  熱っぽく言った。 「直子がいなくてさ、おれもつらいんだ」  そして直子の手を股間《こかん》に持っていった。 「頼むよ。な、いいだろう。すぐに終るから」  直子は哀《かな》しさをおぼえた。  こちらの身を案じる言葉もなく、自分の欲望の処理にやっきになっている有治の、見たくない一面をつきつけられた心地がした。  直子は彼の手を振りはらい、無言で立ちあがると、一目散に病室にもどってきた。  みじめだった。  情けなかった。  もう、けっして有治を頼りと思わない、そう自分に言いふくめた。  外来患者の待ちあいコーナーのベンチで、直子は紙袋からリンゴをだす。  昨夜のやりきれない出来事を、まるでメルヘンのなかの小道具みたいな、のどかなリンゴの形と色で洗い清めたいと願う。  ガウンのポケットからハンカチを取りだして、直子はせっせとリンゴを磨きはじめた。  病室にもどる前に、喫煙室に寄ってみると、いつもの老婦人がうまそうにたばこをくゆらしていた。  七十がらみの、小柄で痩《や》せた、白髪の女性だった。浴衣の上に、渋い色あいの上っぱりを、前をきちんと重ねて着こんでいる。  背すじをのばした毅然《きぜん》とした姿勢でベンチに腰かけ、といって、威圧感のない、直子には親しみを感じる婦人だった。 「お体の調子はいかがですか」  言いながら直子は隣に腰をおろす。 「私は癌ですからね、あれこれやったって無駄なんですよ」  感情のいっさいを抜き取った乾いた口調は、いつものことである。 「四、五日したらコバルトを当てると先生は言いますけれどね、あれも、なかなか大変なんですよ。先の見えている私としては、もう、ほうっておいてもらいたい。でも息子や娘たちにしてみれば、母親のためにやれるだけのことはやったと思いたいのでしょうね。それより、あなたのほうは?」 「様子を見て、多分、手術することになるだろうと先生はおっしゃってました」 「そう。でもその若さで原因不明とはね」  直子は紙袋からリンゴをだして、婦人に示した。 「これ可愛《かわい》いでしょ。売店で売っていたんです」 「人生もこのリンゴみたいにきれいに、まるく、うまくゆくといいんですけどねえ」  華やかなガウン姿の女性がふたり入ってきた。どちらも三十代の後半から四十代で、長くウェイヴした髪型をはじめ、そこはかとなく色っぽい雰囲気を漂わせていた。  ひそひそ声の会話は、沈痛な表情で交されてゆく。 「手術後、三年よ。三年も夜の生活は禁じられているわけ」 「どうしよう。私はいいとしても、主人がねえ」 「浮気でもされたら。でも浮気するなとも言えないし」 「そうなのよねえ」  夫婦間のセックスがそれほどに深刻なことなのか、直子は意外な気持ちにとらわれた。  同時に、昨夜の有治の言動が、生なましくよみがえってくる。  癌だ、手術だ、などと死と背中あわせになった状況にありながらも、ひとびとは死よりもセックスがそれほど重要なのか。  死んでしまえば、元も子もない。セックスどころではないはずなのに、夫の浮気をひたすらに心配している。その気持ちが直子には理解しかねた。自分が独身だからだろうか、とも自問する。  そういえば病室の隣のベッドの上品な女性も、子宮を全摘《ぜんてき》しなくてはならず、その後の夫との性生活の不安を、ひそかに野口さんに相談していた。  子宮がなくなれば夫は不満をいだくようになるのではないのか、というような、相当に思いつめた表情と声だった。  自分の生命や、今後の健康よりも、よほどそっちが大事といいたげな、その発想が直子にはわからない。  たばこを灰皿でもみ消し、婦人はベンチから腰を浮かせた。ひとり言のようにつぶやく。 「さてと、行きますか」  直子も一緒に喫煙室をあとにした。  廊下を病室へとゆっくり歩きながら、婦人は言った。 「自分の命より大切なものなんて、ほかにはありませんよ。あなたもね、今はそれだけを考えていればいいのですからね」  病室に近い廊下の窓に立ち、直子はそう遠くはない距離に一本だけ幹を広げている銀杏《いちよう》の樹《き》を眺めた。  絶対安静が解《と》かれた日の午後、はじめてこの樹に気づいた。  たわわな黄金色《こがねいろ》の葉の、まるで燃えさかるような色彩に、目を奪われた。  それ以来、毎日、廊下にでては楽しみに見てきていた。  ひと雨ごとに葉は散り、樹は痩せ細ってゆく。  たっぷりとした豊かさは失われてゆくけれど、その下からあらわれてきた樹の骨格ともいうべき姿は、余分なものを払い落としたすがすがしさで、直子はこれもまた好きだった。  もうひとつ目に焼きつけ、折りにふれては思い出しているのは、救急車で運ばれてくるときの、車の窓からあおぎ見た秋晴れの空である。  とても澄みきった青空の破片を、直子は体を横たえたまま、大学病院に到着するまで見あげつづけた。  目にしみこむまで凝視した。  そのとき思ったのだ。  生きてゆくうえで、そんなにたくさんのものはいらないのではないのか。  自分にとって限られた貴重なものだけを持っていれば、十分に満たされ、幸せなのではなかろうか。  そして、直子はこのわずか二週間ばかりのあいだに、しぜんと選択していたのかもしれなかった。  その結果、残されたものはかず少ない。  窓から眺める一本の銀杏の樹、救急車の窓から見た青空のかけら、加えて、きょう手に入れた大きな、まんまるのリンゴ。  だがリンゴを胸にかかえ、銀杏の樹とむきあっている直子は、原因不明の病にかかった自分の無力さと非力さを噛《か》みしめながら、いや、噛みしめているがゆえに、いっそう充足していた。  あるいはひとは、どんな場所に、どのような状態でいようとも、自分を支えてくれるものが必要なのかもしれない。そして、それは人間とはかぎらないのではないか。  病室にもどり、紙袋の中のリンゴをサイドテーブルに置く。  目ざとく野口さんが声をとばしてきた。 「おいしそうね、それ。売店で買ったの? それ一個で十分に六人ぶんはあるんじゃない」  直子は黙ってほほえみ返した。このリンゴは食物ではなく宝物、そう答えても笑われるだけだと承知していた。  十日後、直子は手術台にのぼった。  あっけない手術で、苦痛は、ここでも経験せずにすんだ。  後日、担当医から、切り取った子宮の一部を見せられた。  五ミリ四方の純白なそれに、ポツリと黒い点がついていた。傷だと教えられた。  癌ではなかった。  この傷がなぜできたか、やはり原因不明だと医師はくり返した。  直子の二十五歳の晩秋は、銀杏の樹と青空とリンゴと純白、この四つに凝縮されていた。  あとはだれも、何も、いらなかった。無欲になっていた。  ただ、ときどき喫煙室で老婦人と死について語りあい、婦人はそう遠くはない自分の死を淡々と口にした。そのときだけ直子は、彼女に死んでもらいたくないという欲にとらわれた。  有治とは会うこともなかった。  ルームメイト  パジャマに着かえて、いったんはベッドに入ったものの、亜紀《あき》の腹立ちはおさまらなかった。  香織《かおり》はあまりに身勝手すぎる。  自分たちの住まいは男子禁制にする、これが同居するにあたっての約束のはずだった。  それなのに、香織は事前にひと言の相談もなく、ルールを破ろうとしている。  しかも、あしただ。あしたの日曜日の午後、香織の男友だちが訪ねてくるという。  そのことを亜紀が聞いたのは、つい数時間前だった。  香織にしては、いつになく早い帰宅で、亜紀はいそいそとキッチンわきのテーブルに夕食を並べ、久しぶりのおしゃべりを楽しむつもりでいた。  ところがテーブルについた香織は箸《はし》を手にするなり、亜紀の心をこめた手料理の感想を述べるでもなくぱくつきはじめ、ふいに思い出したように言った。 「あすの午後、友だちがくるからさ、悪いけどケーキと紅茶の用意、頼むわ。上等なケーキよりも、ほら、スーパーで売ってるような、とにかく大きなヤツ。相手は男のコだから」  長い髪を手でかきあげながら、香織は悪びれたふうもなくそう言って、ハンバーグのつけあわせのスパゲティを口に運んでいった。  亜紀はびっくりして、とっさの返答にまごついた。手の動きがとまった。  しばらくして、ようやく言い返した。 「それってルール違反じゃない」 「まあね。でも、もう決めてきたから」 「今から断われないの」 「一回ぐらいのルール違反は見のがしてよ」  うるさそうに声をとがらせた香織を目の前にして、亜紀は押し黙った。険悪な雰囲気になるのを、何よりも恐れた。  ルームメイトでいるためには、おたがいにつねになごやかさを心がけなくてはならない。一年前に香織と同居するに際して、ふたりはそれとなく言いかわしていた。  しかし、と亜紀はあかりを消したベッドの中で、この一年間をふり返ってみる。  なごやかな関係を保とうと努力してきたのは、ことごとく自分のほうではなかったか。  香織はいつだって、やりたい放題で、亜紀の思惑など、いっさい意に介しなかった。  たとえば朝と夜の食事の仕度も、最初は一日交替でする取り決めだったし、ふたり共有のスペースであるダイニングキッチンや玄関、バスルームの掃除はひと月置きに担当、ゴミをだす役目は亜紀、マンション内の回覧板を隣の住人に持って行くのは香織、などと役割はきっちりと分担されていた。  けれど三カ月もたたないうちに、香織はさぼりだした。  朝寝坊はするし、回覧板もいつまでも手もとに置いたまま、掃除にいたっては「汚れていたって死にはしない」と平気でうそぶく。  亜紀は苦情を言う前に、自分で動いた。そうすれば、香織もいくらかは良心の呵責《かしやく》をおぼえて、やらざるをえなくなるだろうと考えた。  ところが香織の反応は、あっけらかんとしたものだった。亜紀の仕事ぶりにいたく感心し、手放しでほめちぎる。 「たいしたものだわ。亜紀は本当に家庭的。キッチンだっていつもピカピカに光っているし、私にはとてもここまでできない。やっぱり家事っていうのも、ひとつの才能よね」  大学の女子寮にいたとき、香織はここまでルーズではなかった。彼女の部屋はいつ訪ねても、きれいに整頓《せいとん》されていたし、洗濯もこまめにしていた。  だからこそ、亜紀は寮をでてルームメイトにならないかと声をかけたのだった。彼女となら、規則正しい、たがいにルールをわきまえた、快適な同居ができるだろうと期待した。  期待が裏切られたのは、こまかい生活面だけではなかった。  寮生活から解放された香織は、たちまちのうちに自堕落な学生になり、授業よりももっぱらアルバイト、そのアルバイトで稼いだ金も、派手な服やアクセサリー、夜遊びに残らずつぎこんでいた。もちろん郷里からの仕送りもある。  しかも、アルバイトの内容を亜紀がたずねても、香織はあいまいに言葉をにごし、はぐらかしてしまう。あやしげな性風俗にかかわる仕事ではないのか、と亜紀は心配しながらも、問いつめる勇気はない。  部屋にかかってくる電話のほとんどが男性で、それも毎回、見事なくらい相手が違っていた。かなりの年配らしき声もあった。  自由気ままに、奔放にやっているらしい香織のもう一面を漠然と想像しながらも、またそれが亜紀にとっては、やや眉《まゆ》をひそめる生き方であっても、なぜか同居を解消しようとは思わなかった。香織からも、一度として言いださない。  それはふたりがルームメイトとして最低限のマナーを守っているからかもしれなかった。亜紀は相手の自堕落さを非難したことはなく、香織も亜紀の几帳面《きちようめん》さを、たとえ冗談にしろからかいのタネにしたことはない。  また香織は意外と根気強いところがあった。特に亜紀が相性の悪い母親との幼い頃からの葛藤《かつとう》を語ったりすると、ひどく親身に耳を傾けたりする。  だから香織のルーズさに、ときおり、うんざりしながらも、一年間やってこられたのだった。  だが今回のことは、妥協できない。  香織のさまざまなルール違反にこれまでは目をつぶってきたけれど、男子禁制という最後の約束事だけは、くずしたくはなかった。ある種の意地も働いた。香織の言いなりになって、その一点も容認してしまったなら、自分は彼女のルームメイトではなく家政婦になってしまうではないか。  亜紀は思いきってベッドから起きあがった。パジャマの上にカーディガンをはおり、部屋をあとにする。  小さなダイニングルームをまんなかにして四畳半ふたつの間取りだった。  ドアの前で声をかけてみる。 「まだ起きてる?」 「うん。どうしたの」  ドアを開けると、衣類がすさまじいばかりに散乱したスペースに、ジーンズ姿の香織がベッドにもたれて雑誌を広げていた。亜紀が入りこむ余地のないほどの乱雑さだった。仕方なくドアの手前に立つ。 「さっき言っていた男友だちのことだけど、やっぱり決まりは大切にしたいのよね、私」  香織は顔をあげずに答える。 「亜紀、頼むからそんなに神経質《ナーバス》にならないで。約束しちゃったんだもの、しょうがないでしょう」 「だから、この部屋には入れないで欲しいの」 「害のないコよ。参考にしたいんだって。彼も寮をでて、だれかと共同生活したいらしいの。それだけの話。十分間、いえ五分で用はすむわ」 「じゃあケーキと紅茶はいらないでしょう」  ようやく香織がこちらを見た。苦笑のようなさざ波が顔をおおっている。 「私、見栄《みえ》張って、かなり自慢しちゃったのよ。私のルームメイトは、とても家事が上手で、一緒に暮らすには、これ以上の相手はいないって」  亜紀は黙ってうつむいた。ほめられているのか、あるいはおだてられているのか、すぐには判断がつかない。  そんな亜紀の様子を見て、香織はたたみかけてきた。 「ね、信用してよ。その彼は、私にとってはまったくのジャスト・フレンド。男っていう意識がないの。だから男子禁制のワクには入らないわけ」  翌日、平日通りの時刻に起きた亜紀は、朝寝をむさぼっている香織にはかまわずに、コーヒーとトースト、ハムエッグ、グリーンサラダの朝食をきっちりととったあと、ふだんより念入りな掃除をはじめた。  香織と同じく見栄が働いた。  共同生活の場を見学にくるという相手に、できるだけ好印象を与えたい。  小島《こじま》と称する彼は、午後一時にあらわれる約束だと香織から聞いていた。  掃除機をかけ、窓ガラスから食器棚のガラス戸までたんねんに磨きあげ、キッチンのすみずみまで点検し、バスルームも髪いっぽん落ちていない状態に拭《ふ》き清めた。玄関の靴箱の上の花瓶《かびん》敷きも、大切にとってあった真新しいものに取りかえた。  納得のゆくまで掃除に励み、やがて亜紀は来客をもてなすためのケーキを買いに外へ出た。  香織は、スーパーで売っているような質より量のケーキで十分という口ぶりだったけれど、それではあまりにも失礼な気がする。自分たちが食べて本当においしいと思う品を出すのが、もてなしではないのか。  結局、亜紀はいつも利用しているスーパーの前を通りすぎ、ケーキならここ、と香織と決めている駅前のケーキ専門店まで足をのばしてしまっていた。  ケーキ箱を手に部屋に帰ってくると、香織はまだ眠っているらしく、ドアのむこうからは物音もしない。  時計を見ながら亜紀は手早く昼食にピラフを二人ぶんこしらえた。ピラフを二枚の皿に分け、香織用の皿にラップをかけ、冷蔵庫に入れる。  食事をすませ、後片付けを終えると、予定していた通り十二時半になっている。  バスルームで歯ブラシを使いダイニングルームにもどると、ジーンズにぶかぶかのセーターを着た香織が、寝起きの乱れた髪のまま、キッチンわきのテーブルの椅子《いす》に腰かけて新聞を広げていた。  もうじき小島が訪ねてくる。 「髪ぐらいとかしたら。お客さんがくるんだから」 「いいのよ。彼の前で気取ってもはじまらないもの」  大きな欠伸《あくび》をしてから、香織は満足げにほほえみ返した。 「部屋の中が、またいちだんときれいになったわね。亜紀の実力が発揮されたんだ」 「ピラフ、冷蔵庫にあるわ」 「ありがと。あとで食べる」  亜紀は心配そうに香織の部屋のドアへ目を走らせた。昨夜の乱雑さはどうなったのだろう。少しは整理されたのか。 「ねえ香織、部屋は片付けたの」 「ううん。そのまま」 「そんな。あれじゃ、あんまりよ。そう思わない? 理想的な共同生活のはずなのが……」  いつになく叱言《こごと》めいた口調になった亜紀の言葉の途中で、玄関のチャイムが鳴った。 「こんにちは、小島です」  とまどいと緊張が亜紀の態度をぎこちなくさせていた。  香織の話からすると、小島は自分たちと同様に学生と思いこんでいたのだが、実際は社会に出て二年目、亜紀より四つも年上だった。  しかも香織は、小島がきて十分とたたないうちに、急用を思い出したと言って、着がえもせずに外出してしまったのだ。  取り残された亜紀は一気にうろたえてしまった。  男性とふたりきりの場には、まるで馴《な》れていない。大学二年目のきょうまで恋人めいた相手はいなかったし、それらしいつきあいさえした経験はなかった。中・高時代も、共学ではありながら、亜紀に関心を寄せる男子はなく、自分はそういうタイプなのだと、亜紀自身も認めていた。だから男性には臆病だった。自信などは、とうに捨てていた。  亜紀の途方にくれただんまりを、小島は別に不審がらなかった。物静かに、ぽつりぽつりと話しかけてきた。 「ぼくの友人が香織さんと知りあいで、ときどき一緒に飲んだりしているんですよ」  香織の大学以外の交友関係はあまり聞かされたことがなかった。 「亜紀さんについては、ずっと聞かされていましたから、初対面という感じがしません」  掌《て》が汗ばんできた。どんなふうに香織は吹聴《ふいちよう》していたのか、と思うと、いっそう体が固くなってくる。  そんな亜紀の心中を察したように、小島はにこやかに言葉をつづけた。 「ルームメイト自慢というか、とにかく、共同生活がいかに快適か、を香織さんはよくぼくたちに語りましてね。彼女の話を聞いているひとり暮らしの人間は、みんなうらやましがっていますよ」  現在の小島は会社の独身寮に住んでいるのだという。だが近々そこを出て、マンション暮らしを考えているのだが、香織の影響もあって、気心の知れた友人との同居も悪くはないのでは、と迷っているところに、香織から誘いを受けた。 「一度うちにいらっしゃいな。私のこれまでの話が本当だと分るから」  亜紀は意外だった。香織の言い方からすると、小島がどうしてもとせがんだようなニュアンスだったのに、事実はその反対だったらしい。  あるいは彼が自分に都合のよいように言っているのだろうか。亜紀はテーブルをはさんでむかいあっている小島を、上目づかいにそっと盗み見た。  白いポロシャツにVネックの紺のセーターを重ねた小島は、濃い眉《まゆ》が特徴の、生まじめで、実直そうな雰囲気の持ち主だった。話し方からも、はったりや誇張したひけらかしのできる人物とは思われない。  しばらくの間《ま》を置いて、ふたたび小島がしゃべりはじめた。亜紀はあわてて目を伏せる。 「ここを訪ねてみて、香織さんの自慢ももっともだと分りました。とてもきちんと生活しているんですね。その一方では、香織さんの部屋は彼女の領域《エリア》だとして、手出しはしない。だから共同生活が円満にできるのでしょうね」  そうなのだ。香織は小島がきたとたん、まっ先に自分の散らかった部屋を披露した。 「これが私本来の姿。ところが亜紀のおかげで他のスペースは、つねに清潔。この対比、われながら見事だと感心しているの」  そう言いながら香織は、なぜか楽しげだった。  小島が遠慮がちに亜紀にたずねた。 「でも、ときにはイヤにはなりませんか、ひとり暮らしをしたい気持ちになりませんか。香織さんの話だと、家事はほとんど亜紀さんにおんぶしているとか」  それはなかった。ひとり暮らしをしたいとは、考えもせずにやってきた。うんざりすることはあっても、性格の違いなのだとすぐに気を取り直したし、家事を負担に感じたことはない。  亜紀は何回となく口ごもりながらも、そういったことを小島に説明した。 「ですから、きっと私は、そのう、変な言い方ですけれど、共同生活があっているのだと思います」 「息苦しい、とか、もっと自由になりたいとかは?」  一瞬、返答につまる。  不自由に思ったことはあったろうか、と自問してみる。 「あのう、返事になっていないかもしれませんけど、香織は外に出て自由にやっているとしたら、私は、ええと、うちにいるほうが自由というか。外に出ると、あのう、自分がいかにモテないかを実感させられるというか、つまり、そういうことなんです」  小島が目に笑いをこめて見返した。 「おもしろいですね、亜紀さんは」 「おかしいですか、私」 「いえ、そういう意味ではなく、そこまで自惚《うぬぼ》れのない女性は珍しい」 「だって、本当ですから」  香織によると小島の見学は五分か十分ですむはずだったのに、彼が椅子から立ち上がったのは、たっぷり一時間たってからだった。  差し出したケーキもたいらげ、紅茶は三杯もおかわりした。  そして気がつくと、亜紀もまた時間のたつのを忘れていた。  帰り際、小島は玄関で靴をはき終えてから、唐突に言った。 「映画は好きですか」 「ええ。たまには」 「じゃあ、近いうちにお誘いしてもいいですか」 「…………」  日が暮れてから香織は帰ってきた。  亜紀はキッチンに立ち、得意メニューのひとつであるシチューを煮《に》こんでいた。 「ああ、いい匂い」 「たくさん作ったから、また冷凍しておくわね」  亜紀の肩ごしにシチュー鍋《なべ》をのぞきながら、香織がたずねた。 「小島さん、どのくらいいたの」 「一時間ぐらい」 「どうだった?」 「どうだったと言われても」 「まじめでしょ、彼」  急に亜紀は腹立ちをおぼえた。シチューの材料を切り刻んでいるうちに、ようやくおさまったそれが、あらためてよみがえってきた。 「小島さんのどこがまじめなのよ。けっこう調子のいい人じゃないの」 「まさか」  香織は笑いながらキッチンわきのテーブルの椅子に乱暴に腰かけた。 「彼が調子のいい男なら、世の中の男性すべてがお調子者になっちゃうわ」  亜紀はおたまと味見の小皿を手に振り返った。 「だって、そうなのよ。彼、最後に私になんて言ったと思う? 映画に行こう、ですって。はじめて会って、一時間しか話していないこの私を映画に誘うなんて失礼でしょ。ううん、多分、私をからかったのよ。私がどんな反応をするか」 「亜紀、それは誤解よ」 「どこが誤解なのよ」 「つまりね」  と言ってから香織は困惑した表情で、つかのま黙りこむ。  亜紀はふたたび背をむけて、シチューの味つけをはじめた。 「怒らないでほしいんだけど」  香織が言いにくそうに話し出す。 「小島さんね、亜紀のことに興味を持ってたの。私があれこれ亜紀についてしゃべっていたせいで、いっぺん会ってみたいと頼まれて、それで、きょうその段取りをしたわけ」  とっさにシチューの味が分らなくなった。  この自分に関心を持つ男性など、いるはずがない、と日頃の劣等感が胸にこみ上げてくる。 「彼が亜紀を映画に誘ったのは、おつきあいしてみたいという意思表示だと思う。彼、私たちのあいだでは堅物《かたぶつ》で通っているの。いい加減な気持ちから、亜紀を誘ったんじゃないわ。私が保証する」 「香織もぐるになって、私をからかったんだ」 「違うって。自信を持ちなさいよ、亜紀。あなたは男にモテないと思いこんでいるけれど、亜紀のよさをちゃんと認める男性だっているのよ、小島さんのように。いい? 亜紀のよさを、いちばんよく知っているのは、ルームメイトのこの私。一年間も暮らしている、この私なの」  電話が鳴った。  すかさず香織が手をのばして受ける。 「はい、そうです。あら、小島さん。ええ、ちょっと待ってね」  コードレスの電話機が亜紀の前に突き出された。 「はい、亜紀ですが……」  妙に暗く沈んだ心地で亜紀は対応した。  小島のきまり悪そうな声が伝わってきた。 「いやあ、せっかちかとも思ったんですが、さっきの映画の件、じつはおもしろそうなのが来週、たてつづけに上映されるんですよ。それで、どれにしようか、まずは亜紀さんの好みというか、相談してから決めようと」  それから彼は映画のタイトルをいくつか挙げ、簡単にストーリーを説明しはじめた。  ガスレンジの上のシチュー鍋がぐつぐつ煮え立ってきたのを見て、香織がすばやく立ち上がり、火を消した。振り返って、亜紀に指でOKサインを送ってくる。  小島の弾んだ声を聞きながら、亜紀は、やはりこれは何もかも香織が仕組んだに違いないと、いっそう確信を深めた。  ルームメイトの亜紀の話を、ことさらに言いふらし、そのなかで亜紀に興味を持ち、亜紀と相性がよさそうな男性を、香織は物色しつづけていた——。  今、香織は自分の部屋のドアを開け、もう一度、こちらを振りむいている。  またもや指のOKサインを、笑顔とともに送ってくる。  開けたドアのあいだから、脱ぎ散らかした衣類で、ごった返しになっている室内が見えた。  そして、そこだけは神聖な場所のように、乱れもなくカバーのかかっているベッドがあった。  ベッドカバーは澄みきった青空を連想させる、淡くて、清らかなブルーだった。  ゲーム・セット  給料日の翌日、勤めを終えた博子《ひろこ》はデパートに立ち寄り、ハンカチを一枚買った。イタリアの有名デザイナーの名前がすみに小さくプリントされた大判のものである。 「今すぐに使いますから」と店員に言い、手にしたハンカチをバッグにしまいこむ。  短大時代からの親友である美雪《みゆき》とは午後六時に、いつもの「田舎風《いなかふう》レストラン」で会うことになっていた。フランスの素朴な田舎料理をメインにしたそのレストランは、そう広くはないスペースを居間のような造りにし、いかにも気取りのない雰囲気で気持ちをなごませる。  博子も美雪もゴージャスな店は苦手だった。まず気後れしてしまうし、緊張のあまり料理もろくに喉《のど》を通ってゆかない。  一度だけ情報誌で紹介されていたしゃれた地中海料理と称する店に連れ立って出かけたことがあったけれど、ふたりともみじめさだけを味わう結果になった。ありふれたブラウスにスカートといった恰好《かつこう》は、その店ではふたりきり、しかも同年輩らしい他の女性客はたいがいめいっぱい着飾り、彼にエスコートされていた。  それ以来、「はやりもの」の場所にはけっして近づくまいと、ともに二十三歳のふたりは決めたのである。  約束のレストランに行くと、美雪はすでに窓際のテーブルで待っていた。他のテーブルもほとんどうまっていて、博子たちと同じくらいの年齢の女性たちがほとんどだった。けばけばしくも華やかな服装をしている者もひとりもいない。 「ごめん。かなり待った?」 「私もちょっと前にきたところ」  テーブルにやってきたウェイターに四種類の料理を一人前ずつ注文し、取り皿を持ってきてくれるように頼む。ワインはグラスワインを一杯ずつで十分だった。ふたりともアルコールには弱い。  ウェイターが去ったあと、博子はここにくる途中で買ってきたハンカチをバッグから取り出した。 「ね、これどう思う?」 「ステキじゃない。どうしたのよ」 「彼からのプレゼント」 「へえ。博子の彼って、本当にこまかいところに気のつくタイプなのよねえ」 「それだけが取り柄ともいえるけど」 「うちの彼なんて、全然だめ」 「でもそのかわりに美雪の彼は男らしいじゃない。体育系の男性のよいところばかりを持っている」  それからふたりは顔を見あわせ、いたずらっぽくほほえみあう。  ゲームだった。  実際はどちらにも恋人はいない。  しかし、ふたりの「彼」たちは、かれこれ一年前から会話に登場していた。  最初はあいまいだったイメージも、近頃ではくっきりと博子と美雪の頭にきざみこまれ、「彼」たちの言動には矛盾がない。  博子の彼はふたつ年上である。  有名私立大学を出て、高校生を対象にした進学塾の講師をしている。  塾ではかなりヤリ手で生徒たちにも人気のある教師らしいのだが、私生活では物静かな知的な男性、いずれ別の職業に移りたいと考えている。  細身の背の高い人物で、特に長くて美しい手の指は、彼のデリケートな性格をあらわしているようだった。  服装は清潔とシンプルを心がけ、夏は白のポロシャツ、冬は黒のタートルネックのセーターを愛用している。  アルコールには強いほうだが、人前では酔った様子はけっして見せない。  健康のためのスポーツはこれといってしていないが、つとめて歩くようにしている。ゴルフはしない。賭《か》けごとにも関心がない。  住まいは賃貸のワンルームのマンションで、壁面はすべて書物でおおわれている。  博子が彼と会うのはたいがいそとで、彼の部屋に行くのは月に一回ぐらい。それは彼からの提案で「けじめのない交際はしたくない。馴《な》れあうのはよくない」からである。  博子は彼を心から尊敬している。尊敬できる男性にめぐり会えて、本当に幸せだとも思う。  美雪の彼は彼女と同い齢《どし》である。  ガッシリとした体型で、背丈は美雪とさほど変わらない。  つきあいはじめてまもなく、建設会社に勤める彼は、山奥の建設現場に転勤になった。  しかしふたりの交際は電話と手紙によってつづいている。また彼は、ふた月に一回のわりで帰ってもくる。  彼の性格は、ひと言でいうなら「わんぱく坊や」。  男気《おとこぎ》があり、一本気で、いったん口にした約束は必ず守る。が、ひどく焼きもちやきの部分があり、美雪が他の男性に取られるのではないかという心配と苛立《いらだ》ちをストレートに手紙でぶつけてくる。  そういう彼が美雪は嫌いではない。  飾らない、まっすぐな性格は、むしろ、すっきりと受けとめられるし、そこにずるさはいっさいなかった。  テーブルに料理が運ばれてきた。フランスパンを輪切りにしたバスケットも中央に置かれる。  ゲームはつづく。 「博子の彼って、いずれ進学塾を辞めて別の仕事に転職したいわけよね」 「そうよ」  この店の牛タンのシチューは相変わらずおいしかった。 「そういうのって、不安じゃない?」  よく考えてみると確かに不安はある。  しかし不安というなら彼自身のほうが、よほどその重さをかかえているだろう。そういう彼に必要なのは心の支えではないか。  一瞬、博子はナイフとフォークの手をとめ、窓のほうを見る。  窓ガラスには化粧けのない、どちらかというとひらたくて、めりはりに欠ける自分の顔がうつっていた。  人間は顔ではなく心だ、とあらためて強く自分に言い聞かせる。  ハンサムな部類に入る彼も断言してくれたではないか。 「ぼくはきみの性格が大好きなんだ。でしゃばらず、明るさを忘れない、そのけなげさが」  そして博子との交際を、彼から申しこんできた。  彼が転職で思い悩んでいるときこそ、励まし、力づけてあげるのが、本当の愛情というものだろう。  博子はようやくそこまで考えて、美雪に遅まきの返答をする。 「彼を信じるわ、私は。どうなろうとも一緒にいる。それが本当の恋愛でしょう」  やや間《ま》を置いて、美雪も賛成した。 「そうよ。おたがいに信じあうことって大切。私と彼はめったに会えないけれど、こうしてつきあいがつづいているのも、信じあっているからだもの」  うっとりとしたまなざしの美雪を目の前にして、博子はつかのま鏡とむきあっているような錯覚をおぼえた。平凡な顔立ちという点では、ふたりはよく似ていた。  その美雪の平凡な顔立ちと、焼きもちやきの彼のキャラクターは、どうもしっくりこない。美雪が他の男性に取られてしまうと彼がやきもきするというストーリーは、少し無理があるのではなかろうか。彼女が男性から言い寄られたことは、短大生の頃からきょうにいたるまで、いっぺんもない。  そのふしぜんな設定を指摘しようとしたが、博子は思いとどまった。  美雪は「彼」のイメージ作りにおいて、それなりに自分のほどをわきまえた妥協をしていた。 「背丈は自分と同じくらい」の箇所である。  それにくらべて博子はいっさい妥協しなかった。  こうあってほしい理想の男性像を遠慮なくかかげ、「彼」のキャラクター作りに、残らず押しこめた。  ふいに博子は自分に対して気恥ずかしさをおぼえた。きょうはこれ以上、ゲームをつづけてゆけそうにもない。  思いきって話題を現実にもどす。 「ね、夏になったら温泉にでも行かない?」 「今の見通しだとちょっときついな。ほら、ビデオとか洋服のローンがまだ残っているから」  ふたりとも短大の頃から都会でほそぼそとひとり暮らしをしている地方出身者だった。 「田舎風レストラン」へは月に一回、給料日の翌日に行くことにしている。どちらも二十五日が支給日だった。  少し風邪気味なので早く帰る、という美雪とレストラン前で別れ、博子はネオンサインにいろどられた街中をぶらつきはじめた。  想像の世界では、博子の横には長身の「彼」が並んで歩いている。ふたりはたった今、食事をすませてきたところなのだった。 (寒くないか) (大丈夫よ) (ぼくの腕につかまるといい。少しは暖かくなるだろう)  想像のなかでは、かなり大胆にふるまえるけれど、現実の博子は恋愛に対しては引っこみ思案で臆病だった。なぜか、もう一歩がふみだせない。  うまくゆけば恋愛に進展しそうなつきあいは、これまでふたつだけあった。短大生の頃と、入社して半年ほどたったときで、どちらの相手も二、三歳上の、あまりしゃべらない、女性の扱いに馴れていないタイプだったと思う。会うのは喫茶店、テーブルをはさんでむきあったまま、たがいにぎこちなく、なんとか共通の話題を引きだそうとするのだが、会話は長くはつづかない。相手もまた博子を誘ってはみたものの、どのような手順で親密さを深めればよいのか途方にくれている。  つまらない男、そう思いながらも博子にしてもその場を盛りあげる積極性はない。もし自分からそういう態度をとったなら、安っぽい女に見られはしまいかという恐れと、相手に気があるように誤解されるのは嫌だった。  沈黙の多い喫茶店でのデートは、一時間もすると苦痛になってくる。とりあえずここをでよう、その瞬間だけふたりの気持ちは一致する。  そして、ひとたびそとにでて路上に立つなり、博子は早くひとりになりたい、と思ってしまう。会話にとぼしい、緊張したデートはひどく疲れ、息苦しかった。  けれど、どちらの男性とも三、四回は会い、一回きりで懲《こ》りなかったのは、やはり、そこそこの期待があったからなのだろう。  恋がめばえるかもしれない期待。  だが、相手はいつまでたっても内気で、なんの行動にも移そうとはしない。博子も同じである。退屈な時間だけが流れてゆく。  といって、もし相手が強引に迫ってきたとしたなら、博子は逃げだしてしまうに違いなかった。恋はそういう形でうまれるのではなく、もっとなめらかに、ごくしぜんに、もっとゆっくりと花ひらくはずのものだった。  女性誌では毎月のようにどれかの雑誌で恋愛を特集していた。書店に並んでいるその特集号を目にすると、博子はまるで何かにせかされるように手に取り、あるいは買ってしまう。  有名タレントの恋愛体験談よりも、博子は読者からの恋愛打ち明け話のようなぺージが好きだった。より身近に感じて、自分にも同じ可能性があるような気がしてくる。  最近読んだなかでは「恋愛できない私の悩み」がいちばん印象に残っていた。その投稿者はまるで自分ではないのか、と錯覚したほどだった。  恋愛できないことにあせりをおぼえる一方では、いい加減な恋愛ならしないほうがましだ、とも博子は思っていた。  短大生の時分に住んでいたアパートの隣の部屋には、三十二歳の女性が定職にもつかず、毎日ぶらぶらと暮らしていた。  ある日、どういう気まぐれか、その女性が博子の部屋に遊びにきた。パーマをかけた長い髪が妙にすさんだ、不潔な感じだった。 「おたく、学生さんなんだって? それにしては男っけがないみたいねえ。隣に住んでいても全然そういう気配がしない。あたしがおたくぐらいの齢の頃は、もう結婚してたわ。亭主はミュージシャンの卵で、もちろん、はじめは同棲《どうせい》してたんだけどね」  同棲していた頃のふたりの経済状態は最悪だったという。一日一食どころか、ろくに食事のできない日も少なくはなかった。その打開策に結婚を思いついた。結婚すると友人知人からの祝い金が入る。たとえ一時しのぎであろうとも、お金がないよりもまし、そうふたりは考え、結婚届を提出した。 「まあ、お金のための結婚だったわけ。おかげで祝い金だけで三カ月暮らせた。そのとき決めたのよ、十年たったら離婚しようって。これ、まわりにも宣言したの。で、二年前にちょうど十年たったから、亭主と別れた」  博子はあっけにとられてその話を聞いていた。そしてたずねもした。 「どうして十年で離婚しようと思ったのですか。それに、どうやって十年後に別れられたのですか」  相手は面倒くさそうに長い髪を片手でかきあげた。 「うーん、あたしにもわかんない。まあ、あえていうなら結婚の理由が、お金、というだけじゃつまらない感じで、何か違うハクをつけたかったというか、まわりに宣言してウケをねらいたかったというか」  博子はあれから四年たった現在も、その女性の気持ちがまるで理解できなかった。そんなにも簡単に、しかもお金のためにだけで結婚ができるものなのか。しかも十年後に離婚することを、結婚と同時に決めていたなどとは、どういう感覚の持ち主なのだろう。博子はこの話を思い返すたびに非難めいた気持ちになる。  いい加減な恋愛をしている女性は、その彼女にかぎらず、この世の中には結構いるらしかった。会社の同僚や先輩の話を聞くたびに、入社したての頃の博子はいちいち驚き、目をまるくしていた。  同じ会社の若い営業マンは、会社ぐるみの宴会のあと二次会のスナックで、酔いにまかせて、女性社員十名ほどの前で過去の恋愛談を披露した。  二年前、彼はとあるバーで、そこに入りびたっていた女性ふたりのうちの片方を好きになった。彼よりも数歳上で、病弱そうな華奢《きやしや》な体つきと色の白さ、それに加えて妙な色気のある女性だった。  何回かバーで顔をあわせるうちに、彼はもう一方の女性がトイレに立ったすきをみて、思いきって言ってみた。 「ぼくとつきあってくれませんか」 「いいわよ」  拍子抜けするぐらいに、彼女はあっさりとうなずいた。  彼はのめりこんでいった。真剣に結婚も考えた。  ところがある晩、彼が残業の帰りにバーに寄ったとき、ふだん口の重いマスターが、言いにくそうに小声でささやいた。 「悪口とは思わないでください。例の彼女とつきあっているらしいけれど、もうこのへんでおよしなさい。あの娘《こ》はうちの店の常連客のほとんどと肉体関係を持っているんですよ。しかも、いつもあの娘と一緒にいる女とも恋愛関係にある。つまり……そのう、レズというか……いや、男でもいいんだから両刀といいますか」  彼は信じられなかった。数日後、じかに彼女にきいてみた。相手は表情も変えずに答えた。「まあ、そういうこと」 「今となっては笑い話だけれど、おれはショックだったなあ。そんな女性がいることも、それが自分の彼女だったということにも」  この女性のふしだらな行動と心理も、博子には不快感を伴う謎《なぞ》だった。  複数の恋愛関係というよりも、それではまるで「男あさり」にすぎないではないか。  十年後に離婚すると決めて結婚した女性にしろ、バーの彼女にしろ、どちらも博子には強烈な反面教師になっていた。  いい加減な恋愛はしたくないというプライドを、あらためて思い起こさせる。  そしてまたそういう女性たちにつく男性がいるのも空恐ろしい。真剣に結婚を考えたらしい営業マンは別にして、男たちは何を考えて、彼女たちとつきあったり、結婚したりしていたのだろう。それとも面倒なことはいっさい頭から払い落とし、手近に、便利な性のはけぐちがあると割り切っていたのだろうか。  つまり、こちらがまじめな恋のつもりであっても、相手の男性にとっては遊び、ということもありうるのだ。  しかし、その見きわめは、どこで、どのようにしてできるのか。  見きわめられないままに、突然、だまされていたと気づいた自分の姿を想像すると、博子は全身が硬直してくる。思っただけで、心はすくみあがる。  博子は「彼」とともに自分のアパートにもどった。今夜は特別に「彼」が折れてくれ、博子の甘えを許してくれたのだ。  けじめのない交際はしたくない、ときっぱりと言う「彼」だけど、ときどきはこんなふうに博子のわがままを受け入れてくれる。自分の考えだけを押しつける男性ではなかった。  帰宅したら、まず一杯のお茶で体を温める。香りのよいジャスミン・ティーにしよう。  博子は愛用のマグカップにジャスミン・ティーをいれ、床に置かれたクッションの上にすわる。小さなテーブルにカップをのせる。 (進学塾をいずれ辞めるつもりなのでしょう?) (ああ。決意は変わらない)  そう言いながらも、つかのまうつむいた「彼」の表情に影が走る。多分、博子に反対されると身構えているに違いない。 (美雪ともいろいろ話しあったのだけど、あなたがこの先どんな仕事に移っても、私はあなたのそばにいたいの) 「彼」は黙っている。ここで単純にはしゃがないところが「彼」のよさなのだ。 (迷惑かしら) (いや、そんなことはない。しかし、はたしてきみを幸せにできるかどうか) (今も十分に幸せよ)  雰囲気が沈みかけてきたのをはね返すように、ここで博子は職場での出来事を、できるだけ楽しげな口調で語りはじめる。 「彼」にもその気分が少しずつ伝わってゆく。  しゃべりながら、いつのまにか博子は「彼」の手を握りしめ、リズミカルにふっている。指の長いきれいな手。 「彼」の唇が近づいてきて、軽く博子の頬《ほお》にふれる。  ベッドへと誘う気配を示した「彼」を、博子はそっと押しとどめる。 (シャワーを浴びてくるわ)  部屋にはせまいシャワー室がついていた。浴槽はない。  博子はていねいに全身を洗い、「彼」からのクリスマスのプレゼントだった黒いパジャマを着た。美雪がうらやましがった品だ。「ね、これ、どこで見つけたの?」 「彼」からのプレゼントは、このほかにも、ブラウスやスカーフ、アクセサリーなどがある。  パジャマ姿でベッドのある所にもどると、「彼」の姿は消えていた。  おそらく急用を思い出して、あわただしく帰ってしまったのだろう。いつものことだった。  と同時に博子は眠気におそわれてきた。  ベッドにもぐりこみながら、美雪の言葉がよみがえってくる。 「彼からの手紙、ここ数日で届くと思うの」  あすこそは美雪に手紙を書かなくては、山奥の建設現場からの手紙を、そう博子は自分に言い聞かす。もう十日以上も手紙をだしていなかった。  ベッドに入って目をつむるとすぐにサイドテーブルの上の電話が鳴った。受話器を取り、耳に当てる。  相手は何も言わない。  博子はうれしそうに語りかける。 「あなたね? 急に帰っちゃったからどうかしたのかと。でも心配しないで。いつものように急用を思い出したのでしょ。私のことは気にしないで」  沈黙のまま電話は切られた。  確かめてはいないけれど、美雪がかけてきたに違いなかった。  週に一回は「彼」から電話がかかってくる。いつも、相手はひと言もしゃべらない。博子の話を聞いているだけである。  受話器を置き、ふたたび博子は毛布の下で背中をまるめる。  横に「彼」がしのびこんでいた。 (あら、もう用はすんだの) (早かっただろう?) (風みたい) (ぼくは風よりも速いよ、光なんだから。光だから、いつだって、きみのそばにいる) 「彼」はやさしく博子を抱きしめた。  まどろみながら、博子は「彼」の名前を思い出そうとした。  夢と現実の境目を浮き沈みしながら、次々と頭のなかで苗字を呼んでゆく。  それは、小学生から短大生のあいだまで、つねに博子が片想いし、憧れていた男性たちの名前だった。 「彼」の知的でデリケートな容貌《ようぼう》も、服装の趣味も、読書好きなのも、毅然《きぜん》とした物腰も、その数人の憧れの男性から、少しずつぬすみ取ってきた断片といえた。「彼」は憧れのエキスでできあがっていた。 角川文庫『恋人たちの憂鬱』平成9年1月25日初版発行              平成11年2月10日6版発行